どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

ものの美しさ、人の美しさ

 会社でとても仲良くなった人の、今日が最終出勤日だった。たぶん、ぼくに10年ぶりにできた友達、みたいな人だったかもしれない。
 ぼくよりも7つ上だと言っていたから、いろいろあった人だったのかもしれない。傷を負ったことのある人特有の”優しさ”を持っているように、ぼくには見えた。大人しい温和な感じの人。でも、ちゃんと明るい顔も持っている人。
 仕事を楽しそうにしているようには見えなかったし、(内容がどうこうではなくて)仕事をすること自体が憂鬱だ、とも言っていた。
 この会社にはあまりにも社交的な人は少なく、社交的な人ほど仕事を楽しんでいるように見える。仕事をしたくてしているわけでもない人には、居心地がいささか悪かったのかもしれない。割り切って何かをシャットアウトしている人を見かけたりする。いろんなことがおざなりの人もある。いろんな人がいる。
 自分なんかがわかったようなことを言うのも変だけれど、生きることはあまりに難しい。誰もが何にでも興味を持つというわけでもなく、誰もが自分の興味のあるものに出逢えるというわけでもない。それを必ず仕事にできるというわけでもない。そもそも自分が何をしたいのかを知らない人もある。自分の得意なことだって知らない人もある。
 誰にだって何かしら得意なことがあるはず、とぼくは思うのだけど。誰もがそれを活かせるというわけでもないのだ。だから、生きるのは難しい。
 翻って自分について。
 好奇心を満たすものだったら、なんだっていいと思っていた。そう思ってこの会社を選んだ。ものを作ることが好きだ。自分にもできるかもしれない、とも思った。あるいは、今まで生きてきたことを何か活かせるかもしれない、とも。
 これは今も漠然と思っていることだけれど、好奇心を満たせることなら、本当になんだっていいのだと思う。理解することがなんでか好きなのだ。ものの仕組みを知りたいのだ。人の感情の機微を知りたいのだ。それは、ものの美しさであり、人の美しさである、とぼくは思う。
 自分がこんなにいろんなことに興味を持つ人間だとは知らなかった。というかあまりに人々が興味を持たないことに、ぼくは驚いたのかもしれない。仕事をしたくないと思っている人はいるし、そういう人は理解しようという態度でもない。興味がそもそもないのだから。仕事だから仕方なくしている、という感じ。
 自分は、おそらく、誰にでも影響され得るし、だからこそいろんなことに気をつけなくてはならない。
 自分もこのまま仕事を続けていったらそうなってしまうのだろうか、と思ったりする。今は、自分にとっては何もかもが新鮮だから。
 それに、なんで自分がいろんなことに(仕事の内容だけではなくて)興味を持てているのかわかっていない。ぜんぶが幻になってしまう日が来るんじゃないか。誰かを養うとか人生の責任だとかそういうことについて”想う”と、そんなことを考えざるを得ない。今だって人を養うような立場で、自分がいなければ家計は明らかに回らないのだけど、そんなことは全く考えていないから。それは仕事をすることについての不安がないからかもしれない。仕事で本当に嫌な目にあったことがないから。理不尽な目にあったことがないから。なんらかの理由で他の業種に移ることについて、不安も全くない。そうなるなら、それはそれでうまくやるだろう、と思ってる。興味さえあったら、うまくいく、かもしれない。むしろ、興味を失ってしまうことの方が怖い。
 でも、おそらく、そんな日は来ないだろう。ソフトもハードもいじらせてもらえているけれど、どちらかだけでも一生を賭けてやっていくようなことだと思うから。実体のあるものをいじる楽しさを知ってしまったので、たぶんどちらかだけをやるということもないし、中途半端になってしまうくらいなら、やらない方がマシだと思う。
 そもそも今の自分には、仕事をしているという感覚があるのかさえ疑問なのだけど(もちろん仕事だと思っているけれど)。もっと遊んでいるという感覚に近いのではないか。仕事としての責任を負いつつも、遊ばせてもらっているという感覚の方が大きい。なんだか図らずも天職的(?)なものにぶち当たったように見えるけれど、それも興味があったからだ。興味さえ持てたら、なんだって天職になり得るんじゃないの。
 だからこそ、”美しさ”を知りたいという欲望を、ぼくはいつまでも持ち続けていたい。そうできるのなら、どんな状況であっても、死ぬまで幸せでいられるだろう、と思ったりする。