どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分をいかに見つめているか

 ぼくという人は、たぶん、他人にとって、見下そうと思えば見下すことは簡単な人間なのだと思う。ぼくを見下すための取っ掛かりがたくさんあるってこと。ぼくは自分の欠陥を攻められることについて、なんの頓着もない。そういうものを取り繕おうとも思わない。見下されるかもしれないことについて、もうとっくにあきらめているからなのかもしれない。
 フツーはみんな隠そうとしたり、攻められまいとするんだろう。あるいは、責められまいと、取り繕ったりするんだろう。だって、見下されて良いことなんて、なにもないから。
 ぼくは別に自分を卑下してるってわけじゃあなくて、本当に見下されるべき欠陥がたくさんあるから。事実としてある。一生を揺るがす類のものが。
 それについては、繕ったって仕方がないと思ってる。誰かに認めてもらおうとも、思わなくなった。ただ、なるべく楽しく生き残っていたい、っていうだけ。
 ぼくは、考えることが好きだし、本を読むことも、文章を書くことも、好きだ。音楽を聴くことも、映画を観ることも好き。これは、最近知ったことだけれど、ものを造ることも、ぼくは好きであるらしい。
 こんな歳になっても、まだ楽しみが拡がることは、幸福であると思う。本当に運が良かった。
 そういうことさえしていたら、どんなに人に貶められたって、かまわない。一人でいたって、いいさ。だって、そういう人生だもの。
 なんだかいろんなことを、受け入れつつある自分がいる。
 ぼくは、人を信頼したかった。自分自身も含めてね。
 でも、今は、そうでもないかもしれない。特別に諦念というわけではなくて、なんだか、いろんなことがニュートラルになっている。信頼できる人が現れたらそうできるだろうし(まずは、そもそも信頼しよう、というのが当たり前の前提だけど)、信頼してくれる人は自然にそうするんだろう、と思ったりもする。
 見下されやすい部分があればあるほど、わかることもあるのかもしれない。
 きっと、ぼくは、自分を見て欲しいと思っていたに違いない。容姿でもなく、学歴でもなく、年齢でもなく、性別でもなく、生まれたところも肌の色も関係なく、職業でも収入でも、持っている障害でもなく、好きなものでも嫌いなものでもなく、したいことでも、してきたことでもなく、そして、愛着ですらなく、ただ、ぼくを見て欲しいのだと思う。
 それは、自分の欠けたところを見ないで欲しいってことではなくて、ここに挙げたことには、人の本質なんてないんだって思うから。社会的な信頼とはもちろんまったく違っていて、むしろ、ここに挙げたことこそが、社会的には見てもらうべきことなのかもしれない。でも、それだけでは、失ってしまうものがたくさんある。それはそれ、これはこれ。もちろん、どちらもぼくにとっては大事だけど、でも、どちらかだけではない、って話。生きていくにはむしろ社会的な信頼なしに生きることはできないだろう。”楽しく”なんて言っていられず、生きてさえもいられなくなるんだろう。
 でも、本当に”楽しく”生きるには、なにが必要なのかって、たぶん、ぼくは、もうとっくにわかってる。
 それは、自分のことをいかに見つめているか、ということ。それは「人が見ている自分」でもないし、「自分”だけ”が見ている自分」というわけでもない。人と接するから自分を見つめることができるし、自分と向き合って考えて行動するからこそ、わかることもある。多重的、多義的な自分こそ、ぼくは求めてる。
 この歳になって知った”楽しみ”があるように、何歳になったって、人には何かあるはず。とりあえず興味や関心さえ失わなければ。
 人は、どうあったって生きることができる。誰にだって欠点や欠陥は当たり前にそれなりにあるものだけれど、それを自分がどう捉えるかって、とても大事なことであると、ぼくは思う。そんな感じです。