どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

楽しみを伝えること、楽しみを受け取ること

 何かを理解する時に、自分の中に「この感じ、あの感じと似てるな〜」という感覚があることが、とても理解の助けになる。その広さと深ささえあったら、いろんなことを楽しく感じることができるはず。
 いくらたくさん本を読んだって、どんなに仕事をできたって、人と関わろうとしなかったら、人と関わることについての「この感じ、あの感じ」はほとんどなくて、いろんなことがうまくいかないのだうろなー、と思うし、実際うまくいかないことも多い。
 別にぼくが言いたいのは単に共感力というだけではなくて、あの時に自分も困ったからこの人も困るだろうとか、こういう時に自分はこういう気持ちになったとか、そういうことなんだけど、それを押し付けがましく無く実行できたら、いいなー、と思うわけです。自分はこれが楽しいからあなたもそうでしょう? というのはただの押し付けに過ぎないから。
 自分の嗜好に人が乗ってきたからといって、その相手が自分と同じように考えているとも限らないし、そもそも同じ嗜好を持っているかどうかさえもわからない。特にネットでは。それだけで目の輝きを察することはできない。
 ネットでの人との関わりは、いろんなことが曖昧で、もぬけの殻だよなー、と思う。どこまでも無責任になれてしまう。まぁ現実だってそうなのかもしれないけれども、、、。
 ”何かを理解する”ことについて、”何かを考えること”について、自分の中にあるものだけを壁にして、理解を進めていくというわけでもないけれど、そもそも自分の中にないものについては、そのとっかかりにさえたどり着けない。「これってこういうことだよね……?」ということを、人に確認することさえもままならない。
 自分の理解を、伝えてくれた人に”伝える”ことだって、理解している人(受け取っている人)にとってはその助けになるし、伝えている人にとってもとても有意義なことだ。少なくともこの人が表明したことに関しては伝わっている、とわかるから。自分の理解を自分なりに咀嚼して表明するには、言葉の力も必要なのだけど、それはけっこう難しいことなのかもしれない。
 わからないことを、素直にわからない、と言えることもとても理解の助けになる。伝える相手に合わせて、完璧に伝えることは、とても難しい。伝える方も、それを理解したことを伝えることについても。どんな書き方をしたとしても誰かはあぶれてしまうものだとぼくは思ってる。伝わらないことのジレンマをずっと抱え続けて、人は表現するんじゃないか。何もかもが過不足なく伝わる、なんてまずない。私の総てを知っている人がいるとしても、おそらくほとんどのことは伝わらないだろう。「伝えて」も「伝わらない」こともある。「伝えられる」側にも、態度や意思や気の持ちようがあるから。伝える側ができることは、とにかく「伝える」精度を上げ続けることなのだと思う。
 誰にも伝わらねくていいや、と書いていると本当に誰にも伝わらないものになる。誰にもわかってもらえなくていいや、と思っていると本当に誰にも理解されない人になる。伝えるためには、理解してもらうには、その態度では一生涯、それが叶うことはないのだろう。
 自分の中の「この感じ、」をぼくは書いたりしているけれど、それがどのくらい読んだ人の「あの感じ」になっているのかは、ぼくにはよくわからない。それを表明することだって、その人にとっての理解の一部だとぼくは思うんだけど、まぁやっぱりただの他人であるし、そうすることにその場全体として意義があるというわけでもないかもしれないというのもある。ネットというのは、とても安易な面もありつつ、人間的な厳かさも内包していて、扱いが本当に難しい。
 でも、ぼくの「この感じ、」が誰かの「あの感じ」を引き出すことができているとしたら、ぼくにとってはこの上のない喜びです。それを伝えてくださったら、本当に魂が宇宙に飛び出るほどにうれしいだろう。
 伝わらないことは多かったし、これからもきっとそうなのだろう。それは誰が相手であっても、自分がどう表現したとしても。だからこそ面白いんだけど、だからこそ厄介だとも思う。
 そのことに一生を注力してもいいってくらいに面白そうな話題なのだけど、生憎にぼくの人生にはあまりに時間が無さ過ぎる。
 ただぼくは人生を楽しくしていたい、というだけなので、そうできる範囲で人に伝えるし、人から楽しみを受け取ることができたら、それで良いのかもしれない。
 そんな感じです。