どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

にんげん1回目

 生まれて初めて餃子の王将に行った(めちゃくちゃうまかった)。
 その時に不意に流れた曲(それはとてもぼくを感化する好きな曲だった)。
 たぶんそれで、ぼくの心はあふれてしまって、不覚にも涙をこらえることができなかった。
 相乗効果は考えもしない組み合わせで起こって、渦状にぼくの周りを廻ってから、その“水”を大気に戻していった。
 この街で、あの娘を見かけてから、もう1ヶ月が経とうとしている。“あの日”からの数日間をぼくは孤独に過ごし、君をこの街に見かけたあの1ヶ月前の“その日”のあとの数日間を、ぼくは、なんだか一人ではないように過ごしていたのかもしれない。
 人は、というか、ぼくは、自分の都合の良いように考えてしまいがちなんです。だってそうなったら素敵だと思うから。そうなって欲しいと願っていたから。でも、そう自分の都合の良いようにはいかない。そういうものである。
 ……そういうものである。
 きみのいない世界にも、きっと、良いことはたくさんあって。まだまだぼくは世界について見落としていることがいっぱいあって。
 だから、大丈夫で。ぼくはぼくのことを見くびっていたし、きみの存在だって見くびっていた。こんなにもきみのいない世界について、空虚を感じていた自分のことを、今日になって、実感したのだった。
 世界について(見)落としていたすべてを見つめることができたなら、ぼくの人生は、もっと、ずっと、豊かになるって気がする。
 自分の何かを失って他の何かを得ることがある。例えば、お金を払って何かを買う、だとか。きみを失って、見落としていた世界に気がつく、とか。
 ぼくは、どうやら人間をするのが1回目のようなんです。
 きみのいない世界にも、だんだんと慣れてきて。きみのことを忘れてしまうことが本当に寂しいのだけど、それでも、生きていけるくらいにはきみという人はぼくにはくい込んではいなかったみたいで。
 きみに貰ったいろんなことは、たぶん、ぼくがきみを失ってから気がついた、見落としていた世界につながっていて。だから、きみがいなくても、ぼくは今まで見落としていた世界のすべてを探るための目を、つまりセンサーを、感受を、ぼくはすでに手にしている。それをきみがくれたから。
 あの日見たあのひとは、きっと、ぼくが見たかった、ぼくが創り出したまぼろしなのかもしれない。そうすることによって、ぼくはぼくの中のあなたに気がつくことができて、そうして、ぼくがあなたから受け取ったものを、自分の中に自覚したのだから。
 一日の労働を達した後の、なにげなく入った中華料理屋でおいしいものを食べながら、なにげなく掛かったとても好きな曲を聴いて、ぼくは満たされた気分になっていた。
 今夜、偶然に組み合わさってわたしの中に起こったことのすべては、ぜんぶがきみから受け取ったものの象徴だった。それ自体が象徴というのではなくて、きみがぼくにくれたセンサーをぼくの中に感じさせたのだ。
 人間をするのが1回目であるぼくに備わったこのセンサーを使って、ぼくは、ぼくのこの困難な人生を、なんとかまともなものにできるだろう。だって、ぼくは、ぼくの楽しみを、自分の中に創り出すことができるのだから。