どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

書くことについての、直感

 仕事をすることの楽しみを最近つとに感じている。というか、その快楽を自分の中で制御できなくなっている。その快楽をいつも求めている。
 物を創ることも、物を造ることも、こんなに楽しいことだったなんて、ぼくは知らなかった。何かを達成するまでは、しんどい。それは、とてもしんどい。だって、もし失敗したら、いま自分がしていることの全てが無になってしまうかもしれないから。何かを行動するたびに、人は失敗する。それも踏まえて人々は何かを達成しようとする。それが悦びであるから。それを達成することが、人の役に立つことだと思うから。それを達成することで、自分を社会に活かすことができると思っているから。そうして、自分を生かすことができるから。
 実際に物ができていくという喜びを、わたしは今、日々感じている。わたしが知恵を絞って創り、そのアルマイトに指紋を残して造ったそれを、わたしは愛おしく思っている。
 自分の何かを賭して何かをすることの悦びは、何にも代えがたいのだということを、私はこの歳になって知ったのだった。
 それならば、と思う。こうして物をつくる様に、物を”書く”のなら、その様な悦びをまた得られるのではないか、と。書くことについて、今は残念ながら、それほど何かを賭しているとは言えない。何もリスクを負ってはいない。書くことについて負っていることは、その時間と利き手の腱鞘炎のリスクくらいだろう。とにかく私はそんなに、例えば今わたしが仕事をしている様には、自分を賭して書いてはいない。
 もしそうしたら、書くことについての悦びはいまよりもずっと増すだろうと容易に想像できる。物を創ることも、物を造ることも、こんなに自分の中の悦びを引き出してくるなんて、知らなかったのだから。書くことにも同じことが起こるかもしれないと、僕は直感している。
 書くことで、いや、下手を書くことで自分の何かを失う様な、例えば「信頼」とか、場で書いていたい。場でなくても、自分でそうやって書いているべきなんじゃないか。あの悦びを知ったら、この悦びも求めてしまう。私はもう、おそらく、物を創ることなしに、物を造ることなしに、生きることはできない、と今は思っている。そして、物を書くことなしに、生きることができなくなったらいいのに、と思っている。
 それじゃあ、そのことにまつわる総てを理解しているのか、というとそんなことはなくて、おそらく、そのほとんどを理解できていない。だとしても、書くことで何もかもを失ってもいいと思えるくらいに、物を書くことが好きなのだ。だって、私は明らかに、書くことによって生かされたのだから。そう思えば、何かを書くことによって何かを失うことは、何かに何かを返しただけ、と思えてしまう。そう思えるから、書くことが悦びになるはずだ、と直感できるのだと思う。