どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

”死”を目前にして、私が考えること

 私が初めて”死”という概念を認識したのは、いつのことだったろうか。と、漠然と考えていたものの、まず私が思い浮かんだのは、マンガであった。
 言葉としての”死”は「お前はすでに死んでいる」という今思えば『北斗の拳』のセリフを保育園のともだちが言っているのを耳にしたときかもしれない。その時には「すでに死んでいる」という決め台詞のかっこよさを感じていただけだった。”死”という概念を理解していたわけでは、もちろんなかった。
 実際に生きている人の死に接したのは、父方の曽祖母が亡くなったときだろう。やはり私は”死”というものを理解していなかった。まぁ、小学一年としてはフツウのことかもしれない。当時の私は「大きいおばあちゃんはどこに行ったの?」と親戚に訊いてまわったらしいが、自分では全く覚えていない。
 そこから月日は過ぎて、具体的な”死”は、まぁ、人生にはよくあることだが、やって来た。高校時代のことだ。同級生が亡くなった。女の子。その子は私の友人の恋人だった。
 その時が、私が初めて具体的に人の死を感じた時だったのだと思う。
 ”死”という空虚をその時に明らかに感じていた。その時の私は、今よりずっと鈍い人間だった様に思うが、それでも自分が泥の沼に沈められて泣きたくなるような気持ちだった。正直、あんな目には会いたくないと思ったし、こういう目に近親者や友人に合わせるのは辛いと思っていた。
 それでも、誰だって人は死んでしまう。しかし、死を瞬間、シュンカンに感じつつ生きる人はいない。自分がいつか死ぬだなんて考えることもない。いつか死ぬからといって、生き方がそうそう変わるものでもないのかもしれない。だから懸命に生きたい、と思うわけでもない。
 生きていても、本当になんの楽しみもない人がいるのだと、この歳になって知った。生きるために動(働)いているのか、動(働)くために生きているのかわからなくなっている人。それは、何かに夢中になっているという意味では全然なくて、ただやっているだけの人。そのことになんの喜びも感じずに、厭嫌と生きている人。そういう類の虚しさもあるのだ、と。
 人は生きる儚さを持つと同時に、死ぬ儚さを内包している。生きる虚しさを抱えながら、死ぬ虚しさにひた走る。なぜ生きるのか、は、きっと、どう死ぬか、に直結する。そして、それは、結局のところ、どう生きるのか、ということだ。
 切羽詰めて、精魂込めて生きる必要はたぶんなくて、走り続ける、あるいはそのためにときどき歩くことが大事で、じゃあ、幸せとはなんなのか、って。幸せについて考えなければ、自分が不幸にあるとも解らず、それはそれで幸せなのかもしれないと思いつつ、やはり幸せでいたい、と思う。
 私はなんだか幸せを求めてはいけないような気がしていた。何かを禁じられているような、許可を得ていないような、その資格を持っていないような。
 自分の振る舞いや、先行きについてどうにもならないと思い込んでしまっている時間を私は過ごしすぎた。自分には選ぶ権利はないのだと思ってしまっていた。でも、それはただその方が楽だったから、というだけに過ぎない。放棄してなにかに身を委ねた方が、責任も心的ダメージもそのなにかに委ねてしまうことができるから。でもそれは、自分に対して無責任であった。
 今、私には、自分の振る舞いでどうにでもなることが増えた。それは、これから先、加齢と共に次第に減っていくだろう。
 やらなければ、できない。求めなければ、得られない。何をしようとするか、何を求めるのかは、自分の価値観や美意識に依る。何も知らない人は、何を求めたら良いのか解らないし、人を知らない人は、どんな人を求めたら良いのか解らない。
 じゃあ、どう生きるのか、ということ。