どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

「九十九」を過ごし、やってくる「一」

 エンジニアは、いや人は、ただただ達成することだけを求めている。達成する喜びがそこにあると知っているから、だから、それを日々刻々求めている。私もその一人となりつつある。
 達成しない「九十九」のときを過ごし、最後の「一」のためにそれをしている。それに足る歓びをその「一」は与えてくれる。
 死の刹那をその「一」で迎えたなら。そんな幸せはきっとないのだろうし、そんなことを望んでも仕方ないことだけれど。
 私には、書くことと、音楽と、糧を得るための仕事さえあったらいい。そう思っている。いまの私には、情欲も、愛欲も、性欲もない。
 ただ書いていたい。
 ただ聴いていたい。
 ただ生きていたい。
 それだけなんだ。
 それで充分すぎるほどに幸福である。
 「九十九」があるから「一」が幸せである。文も音も糧のための仕事も同じ。ただ達することだけを求める。そうすることでひとをも幸せにできたら良いのだけれど、生憎そうはなっていないようだ。それさえも「九十九」の途上。願わくば「四」か「五」くらいまでは来ていたら、心が助かるのだが。先がとても長く遠いことは、解りきっている。
 まァ、ぼちぼち行きます。ぼちぼち生きます。
 今日はこのブログとしては珍しく、ある作品の台詞を引用したいと思います。
 ──主人公が大願を成就し、愛する人の元から遠くへと発つことになっている。そこに行ったら生きて帰る保証はない。海辺でのふたりの逢瀬にて。最初の台詞は主人公の弟のものです。

「宇宙まで飛んでったアマチュアロケットなんざァ近頃ゴロゴロしてる 打ち上げたらもう地球には帰ってこないロケットだけが本物さ こいつはまだまだだ」
「……純粋なんだな……ロケットってやつは……」
(まっすぐ
 大気を
 つらぬいて
 ただ
 ひたすらに
 宇宙を目指す
 そのためだけに
 造られた機械
 なんて雄々しく
 なんて美しく
 意志の力に
 満ちた
 哀しい機械)


プラネテス 3』幸村誠作(講談社

 このモノローグのあと、主人公は「独りじゃないからオレは生きていられるんだ」と虚無に向かって呟きます。それは、必ず愛する人の元へ生きて帰るという静かな決意なんです。
 人生には、多くのことがあるのだろう。目的地もなく、どこまでも飛んでいくこともできよう。だけれど、帰るべき愛があるという幸福を、最後に「一」が待っているという幸せを、ボクは知っている。
 様々な「九十九」を過ごして、ボクは、生きる。
 だから、どうあったって、生きられるんだ、と、思うわけです。