どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

「言葉」のあるべき姿態

 なぜわたしがこんなに「言葉」に執着しているのか、よくわからない。ただいえることは、過去に於いて自分を知ってもらうことができなかったという惜しみがあったからなのかもしれない、ということだ。自分を知ってもらうことを文章ですることが不毛であることは分かりきったことだ。わたしという人は、ココにしか居らず、わたしが書いたモノはただ文字の連なりに過ぎないのだから。
 書くという表出には、いくらでも書き手の意識も無意識も、つまり、意図や思惑も入り込むことができる。
 文章を書くことは文章を書くということでしかなく、自分の何かを示すことにはなっても、自分を示すことにはなり得ない。
 文章を読むときに、無意識にその書き手のことをわたしは感じてしまう。音楽を聴くときにその演奏者や作曲者のことを思うのと同じように。感じないわけがないとさえ思う。その創った人に興味なり親しみなり愛着なりを感じたなら、読むことを続け、聴くことを続けるのではないか。あるいはそのキッカケに於いても。
 「人間」なのだ。総ては。「文章」を書いた人がいて、「音楽」を構成した人がいて、それを奏でた人がいる。
 「言葉」は「音楽」よりもある意味ではずっと自由であり、またある意味では不自由である。「言葉」で表現できることが「音楽」では難しかったりする。「言葉」を使えば、解らなかったことを自覚したり、説明しづらいことも説明できるかもしれない。他の方法では表現できないことが、「言葉」でならできることもあるし、またその逆もある。「言葉」によってしか知覚できない「感じ」(アフォーダンス)というのは確実にある。それは一次元的に、あるいは時間の積層としてなり、比喩を用いたり省略や余白を利用したり、何かを想い浮かべさせたり、色や形を、匂いを、味を、音を感じさせたり、それからあなたの皮膚や心に触れることもできよう。
 書くことで自分を示すことは間違っている。「文章」は「文章」に過ぎず、ただ「文章」としてあるべきだ。「音楽」が音を楽しむものであるように。
 「言葉」あるいは「文章」で、自分の何かを確かめたり自覚することもできよう。それを読むことで読んだ人の何かが変わることもあるのかもしれない。わたしの書いたもので人の何かを変えることはなさそうではあるが、わたしは過去に「言葉」であるいは「文章」でそういった経験、あるいは快楽を得てきた。そうした時に、書いた人、あるいは書くことに関わった人々を感じていた。そうでなければ、こんなにも深く強くわたしの皮膚に、心に、その「言葉」や「文章」が入り込んでいることの説明がつかない。
 人と関わるようになって、それまでよりもずっと読むこと、それから書くことが愛おしくなった。
 精緻に書かれた文章は、人に届くと信じている。届くべき人に届いたなら、その文章は幸福である。「言葉」は人のものでもあるのだから。その様にしてあるべきだ。