どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人に伝えるべき神鳴り

 そう思っているのなら、その相手にそう伝わるように伝えなくては、伝わらないこと、ってのがあって。それは、思っているだけでは伝わらないし、そう伝わると願ったって伝わるというわけでもない。
 相手を認めている、ということを伝えなくては、認めているということは伝わらない。態度として伝わる、伝聞として伝わる、なんとなく伝わる、というだけでは足りないこともあって。
 その人が窮地だったり、自信を無くして過ごしているときに、何がその人を支えるのかって、それは例えば、具体的な言葉だったりするのかもしれない。
 一夜の食事も、セックスも、きっとその相手を認めていることを示すのには不十分で。その一凪が、心に落とすものなんて何もなくて。
 一矢の落雷こそが、一轟の雷鳴こそが、それを一生抱えて過ごせるほどにその人を感化し、それをその内部に携えて一生を生き尽くさせる糧とするほどに、その人の中に残ったりする。
 承認欲求を満たすことも、自分の空虚を埋めることも、愛を与えることも、愛を受け取ることも、自己満足に過ぎない。つまり、言いたいことを言うだけでも、自分を満たしているというだけでも、人を想うことも、想われているということさえも、それだけでは、意味はなくなってしまう。
 現実がすべてなのに。言わなければ、伝わらなければ、伝わらない。そうしないで伝わるだなんて、幻想に過ぎない。
 現実ではない世界はどこにだってありはしない。現実だけが現実。思っていることは、自分の中のことでしかない。それを現実にしなければ、思っていないのと同じになってしまうこともある。世界は、いや社会は、いや人は、隔てられている。どうにも、隔てられている。
 人が窮地の時に、追い詰められている時に、失われてしまうもの。それは、自分で自分を認めているという自覚。自分で自分のことを見失ったり、自分で自分のしていたこと自分を認めることができる何かをさえ忘れてしまったりする。そうやって、今までできていたことが、できなくなってしまったりもする。
 そういう時に、その人を恢復させる言葉を、その人の内部に持っているということ。つまり、そのことをできていたことを、その人が自分を認めることができるような何かを、気がつかせているということ。その言葉を人が投げ込んでくれているということ。
 それは時限爆弾のようにその人の内部で時を刻んでいる。そうして、必要な時に発火する。「神鳴り」が落とした火種は、やがて火を灯すのだ。そうして私を暖め、私を再び前に進ませる。
 その言葉が、どれだけ私たちの心を癒すだろう。だから、もしあなたがあなたの大事な人にとっての「火種」を持っていらっしゃるのなら、その人に渡してあげてほしい。その口火を、その人は「神鳴り」だったと思うときが来るのかもしれないのだから。