どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

この世界に在る、すべての素敵のもと

 自分の足りてないとこ、欠けてるとこダメなとこ、そういったところをこそ自分で認めて、開き直るというわけでもなくきちんと受け止めていられる人は、皆、素敵。
 そこには、受け止められるのかという次元と、受け止めるべきナニカに気がつけているのか、という次元とあって。
 人は、あいつに言っても仕方ないと思われたらそれで孤独になってしまう。もう放っておこうぜ、となった途端に孤立してしまう。
 人の指摘を受け入れない人というのもいるし、何かを言っても受け入れてはもらえないだろうな、と思わせる人もいる。その相手自身がそもそも自分で考えたい人であると、人は指摘しづらい。プライドが高かったりする場合もあるのだろう。
 そこには指摘する人とされる人との関係性があって、そこには言い方だったり、つまりその丁寧さだったり、それは煎じ詰めると敬意なのだと思う。
 自分のしたことを認められるのか、ということは、自分に対しての敬意なのだと思ったりする。自分で自省して、自分を進めていく人もあれば、人から閉ざして、自分を大事に扱うこともせず、ただぼんやりと生きている人というのもある。
 人には、自分で自分の全てを把握することはできないし、自分の周りのすべてをコントロールすることも適わない。何かを無から造り出すこともむずかしそうだ。
 人は一人では生きることはできない、ということの本当の意味を? 
 人を人として認める、造られたものを認める、創ったものを認める、誤りを認める、全部同じことなのだ、とぼくは思う。
 人がそこにいる、それがそこにある、ということに敬意を持っているということ。その気持ちそのものが、その人自身への敬意となる。自分以外のすべての人を、自分ではないすべてのモノを、軽んじる人は、自分をさえ軽んじてしまう。
 人がいる、ものがある、それだけでそれはこの世界に在ることを許されている(当たり前だけど)。それについてのすべての態度が、その人自身への鋭い刃となり得るし、そうしてその人は構成されているのだ、と示すことになる。
 真摯な人はその人にまつわることに対しては真摯である。真摯になれることだけをしようと決めているからだ。誠実になれないことはそもそもその人にとっては存在すらしていない。遠く冥王星の振る舞いを感じながら生きる人は、そう多くはない。
 すべてのものが存在しているということ。この世界に存在したすべての人がこの世界にいた、ということ。すべての過ちが、すべての誤りが、知覚されているということ。そして、それを認めることができるということ。
 何がそれを人の目に触れさせるのか、注意深くさせるのか、真摯にさせるのか、敬意を払わさせるのか。
 ぼくには、とんとわからない。わからないのだけど、このことについて考えるだけで、涙が溢れそうになる。
 あの人の些細なことだって覚えているこの脳が、思うようにいかない歯がゆさよ。そうやって足掻きながら、死ぬまで生きていくんだ、人間は、って、今は思っている。