どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

でも、幸せはそれだけではない

 人生に時間がなさすぎる上に、知恵も技術もありやしない。自分の欠陥ばかりが目につくが、過ごす日々を楽しめてもいる。
 「絶対に間違えない人」よりも、「間違えるが、そのことに気がつける人」の方が「間違えない」のだ、とわかっていても間違えることはやはり不安である。
 ネガティブなことばかりで頭がいっぱいになっている人よりも、どこかしらにでも肯定的な何かを見い出し続けることのできる人は、いつだってどんなときだって、幸せでいられるのだろう。
 愚痴を言うことは簡単だけれど、それを虚空に放つだけでは何も解決はせず、ただそれを言いたいだけの人になってしまう。そうなってはいけない。
 なんでそれをその人はしたのだろうという見い出しや、配慮や、気遣いや、見抜く力を欲しいものだ、と思うけれど、そう考えようとするだけでその一歩目には立っている。そして、それはそう考えようという人生経験の積み重ねによって、どんどん容易になっていくのだろう。それに、そもそも相手と自分との関係というのだってある。かの人はなんでこんなことをしたのだろうといちいち考えようとも思えない人というのはたぶんいて、それはそこにリソースを割けないからだ。興味本位で知りたいと思うことはあっても、ごみステーションで酔いつぶれている人がなんでそうなってしまったのか、普通はそんなに考えないし、それは自分とその人の関係にとってはさして重要なことでもないからかもしれない。
 どこにでも何かしらの驚きの素や好奇心の素はあるはずで、それこそが教養なのだと思うけれど、それはきっと感受性だったり、意欲だったり、体調だったり、まぁ、いろいろありそう。好奇心を持てたり驚けるだけの知識が飽和していないと、なかなかそうはならなくて、その点では自分はいくらでもこの世界を楽しめそうだと思ったりする。喋れなくたってあれだけ楽しめたのだから。それが晴れた今、それ以上に楽しめるであろうこの人生には、その点についてだけは不安はない。枷を付けた上で楽しもうとしたことで、その力は特段に増えたのかもしれない。
 だけど、まだまだ何も天井ではない。どこまでも昇っていけるし、あるいはどこまでも落ちていくのだろう。
 じうじつしているからといってそれだけで幸せというわけでもなく、せいちょーしているからといって幸せになれるというわけでもない。
 じゃあ、何を以って幸せなのか、と。
 人に信頼されるということは、この上もない喜び。そして、自分のしたこと、自分で創ったもの、造ったもので人に喜んでもらえることはその礎になっている。この「人」にはもちろん自分自身も含まれている。周りに人がほとんどいない今の自分にとって、「自分を喜ばせる」というのはとても大きいこと。
 でも、幸せはそれだけではないから。わかってる。いつか、かならず。そうなれている自分で在れると思い浮かべている。やっていくだけだ。良いところまで来ている。最善を尽くして、良い人と巡り会いたい。