どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

失敗するということ

 許されるなら、それでいいのかよ、と。あるいは、許されなかったなら、それで全てを諦めるのか、と。
「失敗」を人がどう捉えるのか。
「失敗したということ」を人がどう受け取るのか。
「失敗したこと」を自分がどう捉えているのか。
「失敗したということ」を自分がどう受け止めているのか。
「失敗」による影響が甚大であるときとは、「失敗」した当人がそれに気がついていないときや、「失敗」した当人が開き直るときであると思う。あるいは、なかったことにして誤魔化すとき。
「失敗を失敗にしない」という文句は、ポジティブに捉えることもできるし、ものすごくネガティブである場合もある。
「失敗」を受け止めたからといって、それだけで成長するとは限らないし、その先も失敗しないとも限らない。
 なぜ失敗したのかを、自分の中に探って、考え、実行しないことには、うまくいきようがない。
「それ」がどう間違っているのかを、どう気がつくか、どう察知するのか、って自分の内面の違和感に敏感になり続けるしかないのではないか。そういう自分の中に湧いた淀みを無かったことにするのでもなく、ごまかすのでもなく、解決するように行動し続けることでしか、その先の失敗を回避する方法はない。
 行動することでしか、現実は変わらない。どんなに考えたって、意味がない。自分はこう思っている、だなんて、相手に伝わらなければなにも思っていないことと同じ。どんな言い訳を自分の中に用意しようとも、それはやはり自分の中の言葉でしかない。ただでさえ言い訳は言い訳でしかないのだ。それを人が配慮するわけでもない。自分の心を落ち着かせるだけのものでしかない。何かそうせざるを得ない理由があるのなら、そう示すべきだ。そうでなければ、相手が納得する日など、きっと来ない。
 許されたと思うのなら、それは、相手がなにかを諦めたというだけに過ぎない。
 だから、ぼくは、正直でありたい。誠実でありたい。人に対しても、自分に対しても。そのことが自分の内面の醜さを曝け出すことになっても。
 誰にでも他の誰かより優れているなにかを必ず持っている。それに気が付けないだけで。人の秀でたところを見出し、学び続けたい。相手の優れたところに物怖じしていても仕方ない。どんどん学び続けていくことでしかない。
 人は、有機的な、可塑性の生き物。いくらでも変わることができる。そうしようと思うのなら。そうきっかけることができるのであれば。
 生きる。