どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

正論と美意識

 正論を振りかざすことがいつも正しいことでは、おそらくなくて。正論を吐いたところで、どうにもならないこともあるし、何も解決しない、ということも多い。
 それを吐いているお前は、それを吐くだけの資格があるのかよ、という話でもある。
 完璧な人間など、いない。
 正論でガチガチに固められた何かは、余裕がなくとても窮屈で息苦しいものになってしまう。
 わたしはよく思いついたことをそのままに口走ってしまう。そうして、行動が伴っていないことを言いつづけた結果として、わたしはいろんな人の信頼を失っているのかもしれない。口先だけの人間になってしまっているのでは。それを(例えば、正論を)言うだけの覚悟もなく、無責任なことばかり言っているとしたら、それではダメなわけです。あるいは、発言したあとになってから、その言葉の重さに気がついて、結果として口だけの人間になっている。ということは、それは想像力のない阿呆である、ということだ。
 口を衝いて出ること、あるいは手の動きに任せて表示されるなにかに責任を持たないのであれば、わたしには、何かを表現する資格などない。
 総て解って言う正論と、ただ正論を吐くことは全然違うこと。
 何も慮ることもなく、ただ直裁に表現したことには、何の美意識もない。正論だとしても、それはひどく汚れてしまっているように感じる。
 恥ずかしげもなく、思ったことをそのまま何も考えずに吐くこと。そのタガが外れている人間は、人とうまくやっていくことはできない。人としての「美しさ」の極致が「独りであること」だなんて、わたしには全く思えない。人が「美しい」とは、明らかに人の輪の中でなにかが起きているときなのだと、わたしは確信している。誰からも認められていない、ということは、間違いなく美しくないことの証左なんだ。
 「美意識」という言葉を持ち出したのは、その感覚がわたしにとってわかりやすいものだからだ。外面的、表面的、上っ面の美しさというだけではもちろんなく、その「人」の持ち物すべての美しさのことを想っている。
 その人の表現のすべて。
 表現せずに押し隠したことのすべて。
 その人の過去と未来のすべて。
 そしてもちろんその人のいまのすべて。
 心の持ち様や振る舞いや仕草や、身体そのもの、何かへの反応や発する言葉たち。
 なにもかもが、その人の何かを必ず表している。
 人の機微とか嗜好も、嫌悪も許せないことも、その人の美意識に依っている。
 それらはそうあるべくしてそうあって、そうあることを求められた結果、そうある。
 人が自分と向き合うとき、それらと向き合わずにはいられない。人が人と向き合うときにも、向き合わずにはいられない。そうしない限り、それを磨くこともできず、人を慮ることもできやしない。
 「人の美しさ」とは、どれだけ自分自身を、あるいは他人を、見て見ぬ振りをせずに向き合ったか、ということに根があるのではないか。
 といってまた恥ずかしげもなく正論らしいことを吐いてしまってますね。
 自分のしてしまう、自分の美意識に反して、してしまっていることのすべてを、いつもわたしは悔いている。すべてわたしの為すことは、力を尽くして為したいのです。いつもそうジレンマしながら、潤んだ瞳で足掻く日々です。
 ぼくはこれからどうなっていくのだろう。なにも正しくない気がするし、でも、何かをせずには生きられない。できるだけ、自分の思う「美しさ」に達していたい。
 そんな感じです。