どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

極めたい、表現についてのこと

 音楽と文章は全然違うことは承知の上で、いま、引きたい言葉がある。今日は、その引用から始めようと思う。

 昔、一緒にレストランで演奏していたギターのおじさんにこう言われたんです。「まだ誰も知らない音楽をやれることは素晴らしいことだ」って。レストランでは絶対に人の知ってる音楽をやらなきゃいけない。ギターのおじさんはこうも言いました。「コール・ポーターデューク・エリントンに助けられて僕は生活しているけど、ひろみちゃんはちゃんと自分がつくった音楽でご飯を食べていける。それは本当に素晴らしいことだ」って。
──上原ひろみ 『信じるチカラ』小松成美著(ポプラ社
 まだ誰も知らない“こと”。“自分が知らなかったこと”ではなく。
 ぼくが文章を書く動機は、おそらく「人間の機微」なのだと思う。そこに面白さを感じることに喜びを感じているし、それを人に伝わる形で示せることは、それ以上の喜びになっている。だから、書くのだ。
 そこには自分の価値観とか美意識が当たり前に混じるだろうし、自分の考えをむき出しにするということでもある。
 でも、それだけでは、人に伝わるものにはならない。音楽家が人に伝えるためにしているであろう日々の研鑽をわたしはしていないからだ。自分が受け取ったものを適切に人に伝わるように示すことはできていない。説明不足、表現不足、構造の未熟さ、人の興味を維持するということ。
 人が興味の対象であることは間違いないのに、闇雲に人が好きというわけでもない。人のなにを描きたいのかいまいち釈然としないこともある。
 「人」とはこういうものだ、と端的に表現することは適わないし、「人」はこういう時にこうしてしまう(・・・・・)ということの説得力に欠けることばかりで自分の筆力を歯がゆく思う。
 示したいことにはそれに応じた量と表現があるはずで、だとしたらぼくはそれを捉えることができていない。“それ”を人に伝えるのに必要十分な情報とはなんなのか。
 どんな表現をしたら人に伝わるものになるのか。
 “まだ誰も知らないこと”というのはどういうことをいうのだろう。
 音楽家が日々していることはそれのはずだ。音楽家はその人なりの心地良さを求め続けているはずで、それならば、文章書きにできることはなんなのだろう。
 それを追求することにぼくは喜びを見出せるはず。
 なのに。
 どうしたら人の目に触れる肝が決まるだろう。自分は入魂していない証左なのではないか。そう思ったりする。
 文章には「臨書」という言葉があって。それはぼくにとってのSir Dukeは誰なのか、ってことになるわけだけど。
 文章書きの書くものに「魅せること」は必要なのか、っていうとそれは当然yesで。ただ文章を書くことはあまりに簡単で安易で、だから、ぼくはこの言葉を引用したわけです。音楽とは別の層が文章にはあるのだろうけれど、この言葉は本当に大事なことだ、って、こころで思う。