どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

正しいと思ってしまった瞬間に、なにかがダメになる

 ぼくは正しくはないし、正しいと思ってしまった瞬間に、なにかがダメになるんだろう。いや、今でも充分にダメなんだけど、誰からも相手にされない人間になってしまうんだろう。
 だから。何かをぼくに対して間違えた人がいるとして、それだけでは、自分は間違っていないとはいえないはず。そこで人と自分を繋ぐのは、それまでのその二人の間の関係なのかな、と思う。この人がいなかったらやってらんないという人だったら、また縁があるのだろうし、そうでなければ、それはもうそれっきりなのだろう。
 互いに相手が動けばいいのにと思っているのは、実に泥沼で、そこの意固地さはなにも生まないのだから、素直になって自分の真意を開く以外にないのでは。
 まぁ、そういうのはぜんぶ運命とか縁だとかってまとめがちなのだけど、誰を相手にしてもそうするわけでもなかったり、この人だからこうしたいとか、その時の気分がたまたまそうだったというだけのことも多々あって、まぁ、それも含めていろいろあるよねーという話ではある。
 いま、いろんなことを手放したら、「惜しい人」になってしまうのだろうな、と思ってる。
 いつだって大事なときであり続けると自覚しつつも、いまは特に大事なのでは、と思ったりする。
 いま、自分が何かを諦めることは、きっと、この先の一生に諦めつづけることだろう。それは、「いつだって大事な時である」ということと相まってぼくに働きかけるんだから。つまり、「大事だ」ってレベルをどうやって設定していくんだよって話ですから。たぶん。
 なにを大事にするのか、とかね。なにを心張り棒として生きるのかとかね。なにに美意識を持って生きるのか、とかね。
 人の価値観なんて、本当に様々で、正しそうなことがあるというだけなんだと思う。いま、この時にしかできないことを逃さないなら、人にはいろんな可能性があるのだと思うけど、その、「この時間にしかできないこと」っていうのは普通は感知することができず、そうして、いろんなこと得逃すのだって。でも、それはたぶん、後悔するということさえなく、というか後悔できず、ただ目の前を通り過ぎてしまうんだろう。そういうものだろう。
 それは、人との出会いだったり、仕事との出会いだったり。あらゆるものとの出会いと、そして、それと繋がり続けるってことだろう。
 私が苦手だな、と思ってしまう人こそが、私を成長させてくれる。その人は私のなんらかの起爆剤となりうるし、おそらくは、自分の中にある自分自身の嫌いな部分を象徴的に持っている人なのだろうから。
 私のことを嫌いな人、こそが私を成長させてくれる。人を見る目を私に与えてくれるだろう。その人と関わることで自分の弱点もはっきりとわかるだろうし、その人をこそ尊重することでしか、自分の嫌なところと向き合うことは、きっとないのだから。
 自分が正しいと思ってしまった瞬間に、自分の中のなにかがダメになる。自省を込めて。