月を見上げたこと
人間を、知れば知るほど、わからなくなっていく。
人を理解し、理解されるということは、たぶん、一生ない。そう落ち込んだあの夜に、救いを求めて見上げた空に在った満月は、ただ、それがそこにあるというだけなのに、自分をさえ受け入れてくれているように思えてた。
おそらく、誰も彼もが、他の誰かを理解する、なんてことはなくて。
良い人も悪い人も、良い行いも悪い行いも、良い顔も悪い顔も、なくて。ただ人がいて、ただ行いがあって、ただ顔があって。
誰かに理解してもらえないってことを、絶望する必要なんてないんだ。良い人は次の瞬間に悪い人になり得て、良い行いはまた別の人にとっては悪い行いになってしまい、良い顔はときに悪い顔をその裏に湛えている。
人は何かを受け入れることもできるだろうし、見て見ぬ振りすることだって、できる。
みんな、自分の都合の良いように捉えて解釈して、人をそのように理解している。でも、やっぱり人の全体そのものを、その何もかもを、把握し尽くすことなんてできない。
それでも、人は誰かを好きになって、一生をかけた約束をしたりする。
あるいは、誰かを憎んで自分を焼き尽くして生きていく人だっている。
あらゆる人に対する誤解も錯覚もまやかしも、良いも悪いも、この地球の何もかもを、お月様はいつでも平然と分け隔てなく見ていたはずで。
そう思えたから、僕はこころ穏やかに、誰かに理解してもらえなくてもそれは不幸なことではないんじゃないか、って思えたんだと思う。
人は自分のしたいように行動するし、自分の思いたいように思うんだろう。
人は自分の捉えたいように人を捉えるし、人を理解するんだろう。
人が、誰かの理解してほしいその人自身のことを、理解しようとするというわけでもなく、理解できるというわけでもなく、ただその人のしたいようにするというだけで。
そうやって人を好きになったり、人を憎んだりするということについて、なんだかぼくにはどうでもいいことのように思える。
本当に、どうでもいいことなんだと思う。
誰だって好きになることができるし、誰だって憎んでしまうことだってできるんだろう。そのくらいのもんなんだ。
あの日、あの場所を歩いて、あの刻に見上げなかったら、ぼくは”あの”月を見上げなかったろう。そのことの方が、ぼくにとっては、とてもとても大事なことだった。
だから、もう、たぶん、人生に何があったって、ぼくは楽しく生きられるんじゃないか。
なんか、そういう風に思えたので、そのご報告です。