どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

魅力的なひと

 ちいさい頃に、宇宙に行ってみたかった。それは、遠くへ行きたい、ってことだったんだろうか。
 その頃のぼくは、ぼくの生活に特別に不満というわけでもなかったし、むやみに不安というわけでもなかった。
 ぼくは、遠くへ行きたいというわけではなかった。自分の周りのせかいで充分だった。自分の(ふち)のことだってよくわかっていなかった。
 でも、宇宙で遊泳することは楽しそうだな、と漠然と思っていた。自分のいるせかいでは体験し得ないこと。でも、ぼくはまだ、この世界のほとんどをさえ体験していなかった。
 まずは、いま、自分のいるこのせかいを片付けよう、そんなふうに思っていたのかもしれない。
 ぼくは、世界を知りたかった。世界を理解したかった。知って理解したいことの中には、当たり前のように宇宙もその興味のうちに入っていた。想像することや考えることには、なんの隔たりもない。なんだって理解できるとは思わなかったけれど、なんだって理解したいと思っていた。
 ぼくは、知りたかった。
 それは、いまも途切れずにつづいていて。
 いま、宇宙に連れて行ってあげる、と誘われたとしても、ぼくはきっとお断りするんじゃないか。だって、いまだにこのせかいでの体験はし尽くしていないもの。どうせ、いつか死んだら、ふわふわ浮かぶんだろうって気がするしさ。
 ぼくのするべきことなんて、たぶんない。なにができるというわけでも、ない。この冴えない思考回路を選ぶその情けない判断力を以って、きっとまた、不甲斐ない場所にたどり着くんだろう。
 きっと、自分のすることに満足できる日なんて、来ない。でも、ぼくはそうやって進んで行けるんだろう。
 正しいからとか、誠実だからとか、そんなことはアッタリマエのことで、その上で「たのしいから」っていうのは、ぼくにとってはとても大きなエネルギーになるんだろう。
***
 あの日、宇宙に行った、ぼくの憧れの人。
 ぼくがあの人を魅力的だ、と思ったのは、宇宙を泳いでいたからというだけではなくて、彼がこころの底から「たのしんで」いたからだろう。あの顔は、限界まで刻苦勉励を尽くし、それをさえ「たのしんだ」人の顔だったのだ。そう、いまに成って思う。
 あの人こそが、魅力的だった。
 だから。
「たのしく」生きる為になら、なんだって、やるんだろう。
 できることは、いまよりもっと多くなるだろう。
 遠くへだって、いくだろう。
 するべきことを見つけることができるだろう。
 それは「たのしい」ことだ。