いい人を良い人と思うこと
やっぱり、そうなのだ。
わたしは、人のやさしさや親切心をほんとうには信じられなくなっている。そうなってしまっている自分がとてもくるしい。
そういう自分を醜いと思うから。
猜疑心はずっとあって。その原因は、自分を信じていないからなんじゃないか。
いつからか、固定されたもの、パッケージングされたものしか受け入れられなくなった。ステレオタイプのものを心地よく感じるようになった。相手の思惑が見えないと警戒するようになった。初めから全てを見通せるものしか受け取ることができなくなった。この人はこうしたいから自分にこう言っているというのが不明だと、不安になってしまう。
その、「この人はこうしたいから」というのは、自分が見たその人の一部分から炙り出した欲求だったり願望でしかないのに。そんなものには、いつだって自分の憶測なんて及びやしないのに。
こうしたい、ああしたい、というのがなくなってしまった。自分の考えに余裕がないのを感じる。行動する、考える余地があまりないことの窮屈さ。疑うこともできず、ただ人の言う通りにしていること。
やさしさや親切心をこころのどこかで疑いつつも、それに乗るしかないことの窮屈さ。
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でも、ずっと前からそうだったという気もしている。ここに来て、ただそうであるという自分を自覚し始めているというのに過ぎない。
考えなくていいことを考えてしまう。
悩まなくていいことを悩んでしまう。
人の設定したレールにうまく乗ることができない。なにかの思惑を汲み取ろうとしてしまう。
「楽しいからやる」というのと「人の期待に応えたい」というのをいつも天秤に掛けている。
人とは人生の目的が違うのだ、と自分に言い効かせもする。それでも、自分がなんで生きているのか、やっぱりわからない。それを求めている時点で、人とはなんか違う。
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あんなに好きだったジャズの即興をいまは楽しめないだろう。どうなるかわからないことに、とても不安を感じてしまっている。
何かに操られているような気持ちになる。
そこに、自分はいないような。誰かの思惑にずっと乗りつづけているような。
それでも、人生が楽しければ、良いのだけど。
それによって造られるものが、人を喜ばせるものであれば、良いのだけど。
それを楽しいものだ、と思い込ませようと、それは人を喜ばせるものであると思い込ませようと人はわたしにしているし、自分も自分にそうしている。
それでもいいのかもしれないと思う。騙すのなら、最期まで気持ちよく騙してほしい。
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臨機応変に生きることがとても難しい。というか、こんなにも難しいことだとは。背負うものが増えれば、もっともっと、難しくなるのだろう。それならば、自分は、いくらでも身軽な方がいいな、と思う。それで生きるのが立ち往かなくなるのかもしれないけれど。それだけの経験が自分にはないのだ。懐も寂しい。
それでも、と思う。定型の、固定されたステレオタイプではつまんない。
出たとこ勝負で、勝ち切るだけの何か。
即興こそが、自分の楽しみだったはず。揺れ動く自分の中の一本に通ったすじをこそ楽しめるはず。
あらゆる立ち居振る舞いや行動やそれに伴う技術について。まだまだできることはあって。
それを感じることができて、
それに対応する頭があって、
行動する勇気があれば、
いくらでもできることはあるのだと思う。
まだ、わたくしは自由になれる。
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人が人にやさしくすることに、親切にすることに、たぶん、理由なんてない。ただそうすることが気持ちの良いことだからだ。
でも、そうでもないこともある。そうなってしまうことこそが、人のいちばん醜い面であるのなら、人のことをいいひとだなんて思わないほうが、自分にはよいのかもしれない。
でも、いい人を良い人と思わずにはいられないんです。そうしないことも、やっぱり醜いのです。信頼されていることを裏切ることの醜さは、どんなことよりも汚れているだろう。この世界に存在できないくらいに。
少なくとも最期まで自由に前に進んでいたい。せめて、前を見ていたい。