どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

必要とされること、愛されること

 人の役に立つことに飢えていた。人に必要とされる自分でありたかった。
 自分のことをとても見下してしまっていたから。ほとんど人間ではないってくらいに。少なくともまともではない、と。
 それだって、今もほとんど変わらないと思う。
 人に頼りにされることには、いつも不安がついてくる。期待に応えられるだろうか。自分は懸命にやったとしても、うまくいかないんじゃないか。
 いろんなことを言い訳にしてしまいそうになる。
 時間がない。疲れてる。自分という人間は一人しかいない。手は二本しかない。その場にいることでしかできないことがある。今にしかできないことがある。
 そういうのは、ぜんぶ言い訳。
 かといって、持続可能でなければやってられない。のめり込んだなら、いくらでもそうなれるんだろう。でも、おそらくそれではやり続けることはできないだろう。
 不甲斐ない日々を過ごしている。どんなに人に認められたとしても、この焦燥は消えないのだろう。何処に行ったって、安堵の地はない。誰に認められたとしても、安心するってことはないんだろう。
 私は、どこまでも昇っていける。
 自分をとことん卑下していたからこそ、自分のことを人並みでないと、人間以下だと思っていたからこそ、いま、人に対して敬意を持てているのだと思う。自分でも不思議なくらいにそうなっている。
 それは、自分を貶めつつも、そのことを受け止めていたからなんだろう。自分から目を背けなかった証拠なんだろう。
 いまは、人のダメさが愛おしい。それを自認している人のことは特に。人の良いところがやたらと目についている。
 自分がこんなに人の機微に敏感になるとは思っていなかった。
 自分には、いまだって、問題はある。たくさんある。山のようにある。
 尽くしてやったとしても、届かないことだってたくさんあるんだろう。
 それでも、人に必要とされるのなら、そんなにうれしいことはない。その限りは生きている理由になる。だからこそ力は湧くし、できることも際限なく増えるのだろう。
 おそらく、また、自分がわからなくなりそうになるたびに、こうやって文章を書くんだろう。今までもそうやってきたように。
「人に必要とされる」ということの真意を、僕はたぶん、まだわかっていない。それは、「愛される」ということ。
 究極に人に必要とされる、その「型」には、僕は不思議と全然飢えていない。
 なんだか、まだ、愛されるに足る人間ではないような気がしている。ずっとそう思っている。
 まだ、人生に先があるみたいだ。これからが楽しみです。未来の自分の方が良いに決まっていると思えている。