どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人が在るという強さ

 自分のアイデンティティが全部崩壊するような局面に立ってみたい。何もかも失っても、いま自分が好きなものすべてがそうでなくなっても、自分を生かしているもの全部を失っても、それでも自分が自分であることを確認したい。
 ぼくを形作っているものがなんなのかって、それではっきりするんだろう。それはきっと、「ぼくが好きなもの」ではきっとないし、「ぼくが造り得るもの」でもきっとない。「ぼくを知っている人」あるいは「ぼくを愛している人」でもたぶんない。
 そうやってぼくは作られていない。そんな気がしている。
 だって、サバンナの真ん中に置き去りにされたとしても、ぼくはぼくである。そこにはぼくの好きなものもないし、ぼくがいま造っているものなどなんの役にも立たないだろう。ぼくを知っている人も、ぼくを愛している人も、いない。
 でも、そこに確実に自分は在って、そうやってひもじく、寂しく生きたとしても、やっぱり、ぼくはぼくだろう。
 そう考えたなら、今の自分を構成しているものなんて、大したことではないと思ってしまう。自分に言い効かせてこれは大事、これは必須、これは守らなくてはならない、と決めているだけで、本当にはそんなに大したことではないんじゃないか。
 結婚して、子供ができて、家を建てて、それで人生が決まってしまう。そうやってつまらなくなった、なんて話をぼくは真に受けている。毎月このくらいは最低限稼いで、週の自分の時間の持ち時間はこのくらいで、老後を楽しみに生きていく。
 人に信頼されることを、とても難しいことだと思っていた。今ある信頼だって、気を抜いたら簡単に崩れ去ってしまうんだろう。人に信頼されればされるほど、自分の輪郭ははっきりしてくる。いろんなことに目がいく。信頼してもらえるように自分を見ていることができている今は、自分を受け入れることができているから。だからこそ軌道修正することができるし、配慮する余裕もできる。
 自分という人間を、私はどうしたいのだろう。
 なにが幸せなのか、わからない。いまで十分に幸せだと思う。これ以上を望んではならないような気がしている。ここから先は、というか生まれてこのかた、ずっとボーナスをもらっているような気になる。
 良いこともそうでないようなこともたくさんあったけれど、だけど、ぜんぶ加点だった。この先もずっとそうなんじゃないか。未来の方が、ずっと良くなっている自分を想像できる。少なくとも今より悪くなっているなんてことはないんだろう。健康とかそういうことではない。なんというか、人生の楽しみみたいなもの。
 私は自分の人生が摩耗するのが怖い。つらい時に、夜空を見上げる余裕をなくすのが怖い。誰かに利用され消費されるだけの人生はつらい。好きでもない人と、生きていくために一緒にいるのはつらいだろう。恋をしなくなるのが怖い。胸がざわざわしなくなる日が怖い。
 ぼくの今を作っているものなんて、たぶん、大したものではない。人に信頼されることで私は生きている。だけど、それだけでもない。あの頃に、喋れなくて誰からの信頼も失い、誰も信頼できなくても生きていたように。
 人が在る、というのは本当に強固なんだと思う。
 そう私は実感している。
 なにを好きでも、なにを造ったとしても、どう人の役に立ったとしても、あるいは役に立たなくても、どう人に信頼されようとも。
 なんだか、どうあっても生きていさえすれば、人生を楽しめるんだろう。これ以上、下はないゼ、って感じです。