どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

予告編

知らない人と、映画の予告編を観ている。
わたしたちは、ここにこうしている必要もないし、
それを観ている必要もない。
だけれど、ふたり並んで観ている。
なんだか、この予告編を観なければならないような気がしている。
それも、その人と一緒でなくともよい。
その人である必然性は、たぶんない。
その人のことをわたしは知らないし(だって、今ここに来て初めてお目にかかったのだから)、
わたしのことだってその人は知るはずがない。
それは、わたしの好きな映画の予告編だった。
その人も、その映画が好きなのかもしれない。
絵を見つめる目が、心無しか輝いているようにみえる。
まだ知らない人と、映画の予告編を観ている。
この映画のことは、たぶんなんだって識っている。
この映画の
はじめのシーンも、
最初の台詞も、
映画の中で起こることも、
この映画によって起こったことについても。
予告編はいつも示唆する。
この映画がどんなものであるか。
この映画を観て楽しめるものなのか。
わたしはこの予告編を観ることもなく、この映画を観て、そして楽しんだ。
この映画を観ることによって、映画の楽しみをまた知ったのだった。
これから出会うかもしれない人と、映画の予告編を観ている。
この出逢いさえも、なにかを示唆しているのかもしれない。