わたしが自分で決めたこと
それをしないとしても、それはわたしがしないことに決めたのであって、やはり、わたしが自分で決めたことである。それをしない理由がどんなものであったとしても。どんな要因であったとしても。
なにかをできないと決めることについて、人の関与する余地は、本当にはないのだとわたしは思う。そういう様に自分で決めているのだ。自分から諦めるという体裁をとらないこともあるし、諦める際になにかの所為にすることは人の常である。それはつまり、何かに自分が辞めるという選択権を与えているというだけなのだ。
それは、わたしが自分が決めたことに他ならない。
翻って、人が本当に自分で決めることなんてあるんだろうか。どんなことにも誰かの、あるいは何かの意志が宿っているようにも思える。目にしてきたもの、耳にしてきたもの、触れてきたもの、出逢った人びと、何もかもがわたしに
そうとは意識せずに、私たちは何かに影響されてしまうし、その行動の言い訳を人に与えてしまったりする。
誰かの思惑であることにも気がつかずに。
それでも、わたしはわたしである。
それを人の所為にしているということにも気がつかずに。
それでも、それはわたしの意志である。
その行動になんの責任も持とうとしなくとも。
それでも、わたしはなにかを負っている。
なにかの影響によってしたことであっても。
それがわたしのしたことであれば、それはやはり、わたしのしたことだ。
当たり前のこと。
自分の脳みそを通過して、わたしが行動したことは、自分が決めていて、自分の意志が宿っていて、そうして、やはり、わたしの責任である。
なにかを諦める理由はごまんとある。それを人に委ねることは簡単だ。なにかの所為にすることほど容易いことはない。
なにかをしようというのに、そこから逃げること。
それをしている自分を人に見せたいだけなのではないか。
それをわたしは本当にしたいのだろうか。
そうしているという自分を、誇らしく美しく優れていると思いたいというだけなのではないか。
快く思われたいというだけなのでないか。
自分がそれをすることに、意味のあること。
自分がそれをすることによって、自分がどうなろうと構わないこと。
自分はそれをしなくては生きてはいられないこと。
どうしても諦められないこと。
それをしていなくては、生きている甲斐のないようなこと。
それをしなければ、自分は救われないということ。
そういうことを、人に委ねてはならないし、人に選択権を与えてはならない。
わたしが自分で決めたこと。
わたしのすることに、わたしが自分で決めていないことなど何ひとつないのだ。
今こうしてペンを持ち書き綴ることにも、頬杖をついて一瞬の間を取ったことにも、尿意をもよおしたもののキーボードを叩き続けていることにも。
そう思えば、やることは、決まっている。いや、「わたし」が「自分で」「決めた」こと。
それ以外に、わたしが今することなどないんだ。