どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

持っている人と持っていない人の恋のこばなし

 ぼくの彼女は携帯電話を持っていない。「スマホ」ではなくて、「携帯電話」を、だ。別にファラデーとかマクスウェルに恨みを持っている、とかなんかそんなことでもなくて、単純に携帯電話が必要ないらしい。高校生の間だけは成り行きで親に持たされていたらしいのだけど、大学に入ると同時に解約したんだと。
 おかげで待ち合わせなんかは慣れないうちは苦労した。パソコンは持っているから、メールなんかはするのだけど、それもまぁ、待ち合わせの連絡としての用途でしかない。なんのとりとめもないことをだらだらといつ終わるとも知れずに続けていく、なんてことはこの人はしない。なんか、そんな感じの人。絵文字も使っているのを見たことがないし。何かあったら電話してくるし、逢う。
 かと言って、周りから浮いているかというと、携帯を持っていないことを除いてはそうでもなく普通に普通の人としてうまくやっているらしい。
 携帯を使うような職種でもないし、友達ともおそらく僕とやっているように待ち合わせだけ決めておちあっているのだろう。
 待ち合わせに会えなかった時の決まりごとみたいなことを決めておかないとえらいことになるのだけど、まぁ、その辺も含めてぼくたちはうまくやっていると思う。
 というか、携帯もスマホもそんなに必要なものでもないような気がしてくる。いや、やっぱり迷惑ではあるんだろうけど。
 携帯が当たり前になるより前には、当たり前だったことだもの。もう、それなしには快く生きることができなくなっているような人も多いのかも。
 この世界は情報過剰になってしまった。どう考えても。それを取捨選択する知恵も感性も道徳も美意識もないってのに。「その瞬間」にしなくてはならないことなんて、ほとんどないってのに。
 早くやろうとして、本当にはぼくたちは遠回りをしているのかも知れない。実際にやっていることは、どうでもいいことは、思いの外おおい。
 所詮は暇つぶしなのだ。人生とは。死ぬまでの。
 そう思ったら、携帯に構っている時間などない、なんて、これは彼女の言葉そのままではないけれど、たぶん、そんな感じなのだろう。
 手持ち無沙汰になると、ついスマホを見てしまう。そうしてすでにそのときに受信されていた、ぼくの感情を揺さぶりかき乱すような、わずらわしくてしかたのない、でも、ぼくの人生とはほとんど関係の無いなにかに、ぼくはそのシリコン塊を持ち上げている毎秒まいびょう翻弄され続けてしまっている。
 そのことを不毛だと思う、この人が愛おしい。ときどき生き急いでいるようにも見える。でも、そのくらいでないと「暇」でしかたがないのだ。人生は。
(1105文字 了)