どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

みんなが“良い”と思うってこと

 革命、情報革命。ぼくの世代はそれにうまく順応できている最初の世代かもしれない。
 だけど、その溢れる情報をうまく扱えているか、というとおそらくそんなことはなくて、持て余してしまっている。順応している、とは、それにアクセスしようという気持ちになる、くらいのことなのだと思う。
 結局のところ、その溢れる情報をどう取捨選択するのか? という問題は、ずっとついてまわる。その選択肢が無数にあり過ぎるというだけなのだ。
 情報は増えたのだから、学ぼうという意欲のある人にはとても有意義な社会になった。嘘や偽物やまがい物を見抜く分別がぼくにあると尚よいのだけど。
 質の高いものが増えるなら、こんなに良い世界はない。
 誰にとっても良いもの、心地良いものなんて、たぶん、ない。選択肢が増えることはとても良いことだけど。
 「何かをする」ということについて、こんなに間口の広い時代はなかったかもしれない。情報がこれだけあれば、そして、これだけいろんなことに安易に取り掛かることができるのなら、それをしようという人は増える。PCの発展によっていろんなことが容易く、そして安価になった。PCひとつあれば、あるいはスマホひとつあれば、それだけでいろんなことができる時代になった。
 だけど、そのやり方はどんどん一律になっていく。こういう風にやるとうまくいくという“強い”情報はどんどん拡散され、検索上位に位置され、皆に当たり前のように共有される。まるで、ゲームの攻略法みたいに。
 恋愛までセオリーのようなものができてしまう始末。こうすると出会えるとか、この職業はいい、みたいな。こうすると人は喜ぶ、みたいな。
 そうやってある意味で応用の効かない人間がどんどん出来上がっているのではないか。ぼくたちは頭を働かせる機会をどんどん失っている。何についても検索すれば、スマホを出せば、なんとかなると思い込んでしまってる。
 でも、明らかに幸せは、金属の塊の中にはない。理想の相手を探す方法はその中にはないし、幸せもまた。
 詳らかにしておきたいことがある。世界中の誰もが一律に“良い”とするものがあると得をする人たちがいる。工業世界も製造世界も、あるいは情報世界もそうやって“良いもの”を効率的に生産したいのだ。そこにあるのは押し付けがましいバリエーションという名の個性しかなく、個人の嗜好の入る余地はほとんどない。作る側、売る側の都合で作られたものを選択するしかない。
 わたしはゲームのシナリオをたどっていくみたいに、人生を過ごしたくはない。誰かの嗜好に自分を合わせることを良しとしない。個性的でありたいとは思わないが、その余裕をなくすことは窮屈だと思う。他人にこういう人が好きだろう? と決めつけられることの怖さをぼくは知っている。まるでそれを選ばないことが“弱い”かのように謳う、その一律さにぼくは恐怖を感じる。
 世界がもっと良くなるといいのだけど。もっと、自由になれるのに。もっと心地良くなれるはずなのに。なんだかなぁ、と思ったりしている。