どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

たいていの恋は夢想

 理想の相手を想定したところで、その相手は永遠に現れることはない。ただ目の前にある現実を“是”とするか“非”とするか、“非”だったけれどなおざりに“是”となったり、“是”だったけれどうやむやのまま“非”となるのを見て見ぬ振りをしたり。
 “人類”は時代を追うごとに理想の相手を想定しやすくなったのではないか。印字・印刷・映像技術の開発/発展によって。つまり、物語による逸話よりも、刷られた浮世絵よりも、白黒の写真よりも、雑誌のグラビアよりも、鮮明な映像情報の方が人間を具体的に描くからだ。具体化された虚像──しかも、大衆に向けてそれは過度に理想化されている──は、人に希望を与える。流行りの映画、ドラマ、アニメ、漫画、ゲーム、YoutubeSNS、さまざまな媒体で私たちに理想像をつくらせる。まるでそれが現実に起こり得るかのように。嘘など何ひとつないかのように。見ている当人の感覚をうっとりと麻痺させるために。そうすることで彼らの商売が成り立つのだから。
 うっとりしていたい人の、なんと多いことか。
 現実は昔から変わらない。夢に描いた理想の相手は、永遠に現れない。目の前の会手(相手)を変えることも容易くはない。目の前の人を受け入れるかどうかでしかないのだから。
 結婚は、諦めが肝心だと人は言う。
 結婚は、人生の墓場だと言う人もいる。
 現実は、現実だ。夢は夢。
 現実感のある虚像は、残酷だ。
 技術の進歩によって、人間の心は豊かになっているといえるのだろうか。より一層、みすぼらしく、みじめに成っているのではないか。
 その時代の人には、その時代の人として、それで幸せだったのだ。だってその時には、それしかなかったのだから。それがサイコーだったんだから。
 だけど、“人類”は幸せに向かっていると言えるだろうか?
 夢と現実の差に、人は溺れる。
 夢をみているということを、人はうっとりしながら認識しているものだろうか。
 夢の現実感。現実感のある夢。
       現実の中の夢。
       現実の中に夢をみること。
       現実を夢みること。
 それが夢(=空想)であるのか、現実であるのか、あるいは、現実に成し得ることであるのか。
 夢(=空想)にみることを、人は本当に実現したいと思うだろうか。夢の中の居心地が良ければ、それを現実としてしまうのかもしれない。実現したいと思って夢をみるのではなく、夢を夢として、そこに溺れると言う現実に浸って、人は安心していたいのかもしれない。
 そもそも夢をみ始める時点で、それを現実とすることを諦めているのではないか(諦めさせられているのかもしれない)。夢は夢として摂取している。夢は夢として消費している。夢を現実とする気などさらさらなく、現実は現実として割り切っているのではないか。
胡蝶の夢」をみていると、人々は認識しているだろうか。
 現実は、いつも現実だ。
 それが現実であるか、空想であるか
 受け取る人が、現実を求めているか
        空想を求めているか
        現実を信じたいか
        空想を信じたいか
 夢をみていたいのか、それでも現実を直視せざるを得ないのか。
 現実は、生であり、死であり、そして、幸せのことだ。その幸せをどう感じるかは、人それぞれである。だけれど、いま、そのひとが感じている幸せだけが、そのそのひとの感じ得る幸せではない。自分の領域の外側には、いくらでも幸せは(不幸せも!)転がっている。自分では思いもよらなかったことが幸せだったりするものだ。欠も満も同じ。三日月も満月も同じ月で、その見え方が違うだけ。どちらが良いということもなく、どちらが劣っているということもない。ただ、どちらも、実際に在る月を見ている。
 ただ、幸せであればいいと思う。偶像によるシアワセもいいだろう。だけど、現実を積み重ねた幸せには、到底かなわないと、わたしは思う。人によって誘導されたシアワセと、現実としての、実感のある、自分が本当に求めている幸せを掴むこと。どちらがしあわせなのか、わかりきったことだと、わたしは思う。
 そういった訳で、たいていの恋は夢想だ。
 その、前の人を“是”としたとしても、それは間違いなくそのひとの一面でしかない。たまたまよく見えたのだ。それは自分の中に熟成された夢想にたまたま重なった幻かもしれないし、自分の親と似ているように感じるという錯覚だったりするのだろう。
 人は、生まれてから死ぬまで恋をする。
 でも、それは、すべて、夢。
 だけど、夢そのものではなく、現実としての夢に恋することで、そのひとのことを愛することができるのかもしれない。
 “是”も“非”も。
 “美”も“醜”も。
 “好”も“厭”も。
 “正”も“負”も。
 “得”も“損”も。
 “興”も“飽”も。
 吐く息も。
 その頭蓋骨だって。
 現実には敵わない。そうして現実に受け入れられることの歓びは、どこまでも尽きそうにない。完璧な人はない。現実に否定されることもあるだろう。それでも“是”になろうと、自分を磨く。現実に受け入れてもらうべく。そうして人は成長していく。
 だから、生きていることはこの上なく楽しい。死ぬまで飽きないだろう。
 恋をせんとや生まれけむ。
 死してなお、(地獄ではなく)恋に落ちたい。