どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

ひとがなにかを得るということ

「あなたは本を読み過ぎて 頭の中も 身体の中も “知恵”や“知識”でいっぱいね」
「でも、そこに、あなたの 頭や身体を通した“経験”はほとんどないでしょう」
「実際にやることと、できること、やれるつもりでいることは 違うのよ」
「やったらできるかもしれない あなたはうまくやるでしょう」
「でも、そうでもないかもしれない。わかるでしょう? 上手くいかないことだって あるって」
「得たものを役に立てなくては、活かさなくては、 あなたがそれを得た意味がない」
「それでは、誰でもよかった ってことになってしまう」
「でも、そうなってはいない」
「あなたでなくてはならなかった その意味を示すの」
「それが役立てる って、ことでしょう」
「役に立つということは 目的ではなく、結果なのよ」
「それを得るべきだったと、そう選ばれた という意味を、示すの」
「この世界にあるものは すべて選ばれている。忘れないで」
「それを得ることも、選ぶとしても、選ばれることさえ、仕組まれている」
「ただ、みな、それが“真”であると示せないだけなのよ」
「だから、せめて、なんとか、示すのよ」
「選ばれた、という意味を、 価値を、 その役割を、 この世界に」
 そう独り言ちて、その(ひと)は行ってしまった。
 もともとその人の居たところへ。
 扉から、鍵の掛けられた扉から、その向こうへ。
 その世界へ。
 ぼくは、今すぐにでも、そこに戻りたい、とおもったのだった。
 この“身体”と“あたま”をつかって、できることをいくらでもしたいとおもった。
 そうしたい。それによって生きたいとおもった。
 彼女が言うように、そうできるだろう。そうしようとおもえば。
 おもえば、わたしは、わたしだった。
 そのことをずっと忘れていた。
 かの人は、それを思い出させてくれたのだった。