最期の床にて
あなたと出会ったとき、今までぼくに起こったすべて、ぼくが考えたすべて、そして行動したことのすべての訳がわかった。
なにもかものすべては君と出会う為だったのだ。
高三の夏にふとジャズのCDを買ったことも、大学生のときに本屋で働き始めたことも。
一つひとつの行動、心の動き、思考、なにもかもが、あなたとの一点の交わりに向かって収束していった。なにかを選ぶ度に、ぼくという人間は限定されて、そして、あなたと重なった。
ジャズも、本も、ただの一例に過ぎない。
なにかに謀られていたかのように“その人”はあなただった。今まで生きてきたすべての物事は、あなたとの接点となった。接点の集まりは線となり、面となり、やがて立体となって、つまり、もう
彼女を初めて抱き上げたときに、わたしはなにかを繋いだとおもった。これから、長い時間をかけてバトンを渡していくのだ、と。
あなたと出会ったことの意味は、彼女へあなたとわたしの何かを渡して繋ぐためのものでもあったのかもしれない。
そこには、一本の帯が流れている。繋がれて生まれてきたわたしとあなたが出会って、脈流としてまた接ぐことができた。
自分が生まれて、生きてきたすべての意味を、わたくしはつかうことができた。接する点の多い方が、接ぐのに具合がいい。ただ、それだけだ。人とひとのつながりというのは。
また、来来世にでもお会いしましょう。
左様なら。
(了)