老後の鼎談
その、写真に収められた彼女の笑顔が輝いているのは、彼女を撮っているあいつのことを見つめているから。あるいは、目だけではなくこころで。
人を思う気持ちは、簡単にわかってしまう。だけど、当の本人にはわかっていなかったりする。彼女が、こんな顔をするなんて、こんな風に笑顔のシワをこしらえているなんて、ぼくは知らない。
側から見ていたら、ぼくもあいつも、そして彼女も、きっと対等な関係に見えているんだろう。でも、この写真を見たぼくには、そうは思えないでいる。
落ち込む? いや、そんなことではなくて。そんなことではなくて、ぼくと二人とのそれぞれの関係を、ぼくたちはそれぞれに愛おしく思っている。だから、三人でいることは楽しいことだ。
一葉の写真を棚に上げても、ぼくには彼には勝ち目がないのかもしれない。
かといって。
波打ち際に三人でいたときに、なんだか、おもうことがあった。あの子は、何か物憂げで、それでいて、あいつはなんだか笑ってた。ぼくは、どんな顔をしていたんだろう。
どこにいたって救われる気がしないのに、それなのに、三人でいることがこんなにも楽しくて、ぼくは、ある種の絶望みたいなものをその裡に隠し持っていたのだった。
三人であることが、たぶん、大事で。このバランスを崩すことに、この、微妙なバランスを崩すことに、ぼくたちは不慣れだった。
人と、楽しく過ごせるというこの幸福を、これを読んでいるあなたは知っているだろうか。あれは、いいものだ。きっと、人が生きていく理由になるくらいに。やっぱりぼくは、救われる気がしない。どこにいたって。誰といたって。なにをしていたって。
そして、また、愛しい人を独占したいとも思ってしまう。それは、叶わないとしても。そして、それでさえも救われないとわかっているのに。
人が死ぬときに、なにを思うのか。人は結局はひとりなのに。それなのに、人を、やっぱり、求めてしまう。
この三人だからよかった。この三人でなければならなかった。どうせ救われないのなら、その方がいい。楽しいことに勝ることは、きっとない。どんな幸福だって。この三人には敵わない。そう二人もわかっていると、ぼくもわかっている。
例えば、五十年後にも会う人たちになるんだろうと思ったりする。そうなれば、いいな、なんて。おじいちゃんおばあちゃんになっても、今とおんなじように、和気藹々と、そして、なんらかの悲しみを抱えて、バランスを保っていられたら。
こころの裡にあるものは、隠しきれないんだろう。それでも、あのときに愛を告げてくれなくてよかった、なんて、あの子はぼくに、あいつはあの子に言い合ったりして。
ぼくは、死ぬまで、楽しく生きていたいと、おもう。
(了)