どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

自分を幸せにしようとすること

 ひとはふつう、自分を幸せにしようとするものなのか
 なんとなく なんとなく
 はしっていたけど
 やっぱりそうなのか

 だから、幸せにしてもらっているひとを見ると複雑な気持ちになっていたのか

 そんなこと、当たり前のことなのかもしれない
 でも、なんだか、そんなことはなかった
 ぼくにとっては

 自分を幸せにしようとしない人間が、誰かを幸せにしようと思うはずがない
 そう言ったら、なにかの弁解になるかもしれない

 ただ、なんとなしに
 いろんなことをやっていた
 仕事も 趣味も 気晴らしも
 みんなみんな
 自分の時間を潰していただけだったような気さえする

 いや、少しは楽しくいようとはしていたろう
 だけど、それが幸せのためとは全く思わなかった
 本当にほんと
 思いもしなかった

 自分で 思わせもしなかった のかもしれない
 なんでか、自分は幸せにはなれないと思っていた
 なんでか、自分は幸せになってはいけないと思っていた

 これはかわいそうとかではなくて
 なんだか、そういうものなのだ
 というだけ
 いろんな歯車が噛み合って
 そうなってしまった

 いくら
 考えても
 幸せになりそうもない

 行動は
 めっぽう奥手なのに
 そうしようとはほとんど思えない

 金を使ってそれで幸せだなんて
 うすうすだ

 幸せのことを能動的に考えたり
 主体的に実行したことがなかった
 ただ生きていられたら、それでよかった
 それしか求めていなかった
 ただ幸せは幸せとしてあったのかもしれない
 ただ幸せだっただけだから、それが幸せと気がつかなかったのかもしれない

 主体的でない人に幸せはないと思うようになった
 自分から動く人にしか幸せは察知できないのかもしれない

 自分を、人を介して幸せにしていいのだろうか
 自分を、幸せにしてもいいのだろうか
 人を、幸せにできるだろうか
 受け身の幸せよりも、自分から幸せになる方が、幸せだ、といまは思う