どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

ことばを発すること

 ちょっとしたことばを発するだけで
 それは、叶えられるべき欲求、
 あるいは助けて欲しいという叫びとして
 受け取られてしまったりする。

 それはときにワガママとして捉えられ、
 あるいは、その要求をさえ歓びとする人もある。

 人は口で夢を語ることも出来れば、
 人を罵ることだってできる。

 陰口を叩くことほど容易いことはなく、
 また、そのことばが陰口を発した当人を焼き、そして、苦しめるのだろう。

 人を褒めることほど難しいことはないと知っている人は賢明だ
 だからこそ、人に褒められることはムズかしい。

 ことばを発して、それだけで世界と繋がるというものでもなかろう
 しかし、発さなくては、そこにいないことにされてしまうこともある
 権利を、人としての当然の権利を主張するべきときもある
 例えば、”Be Water !”と。

 朝焼けを美しいという人もあれば、
 夕焼けが好きだという人もある。

 これからに期待する人もあれば、
 終わったなにかに安堵する人もある。
 もしかしたら、夜に起きるなにかを想っているのかもしれない。

 人には苦痛で仕方のないこと
──例えば、朝焼けを見るために起きるだとか──
 がまったく苦もない人もある
 あるいは、朝焼けを美しいと思いたいがために早く起きる人もある
 夕焼けを見るために何かをする人は少ない
 いつの間にか、真暗になっていることはあっても。
 
 夜に見る月に、「あ、」と思わず声を出す人は、きっと、素直な人だ
 必要なときに助けを呼べるだろう

 『ことば』は総じて『おもい』だ。
 その裏にそのひとの考えを湛えている。

 発したことばにこころを乱してはならない。
 発せられた言葉にうろたえてはならない。
 それらを
     受け止め、
     受け入れ、
     噛み締め、
     飲み込んで、
     滋養とし、
 そうしてこそ、
 わたくしの人生はある。