どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

グッとくることによって生きている、わたしというグッとこない人

 生きている意味なんて、おそらくないんだろう。それでも、楽しみのために生きいているような気がしている。よもや、子孫を残すために生きるつもりもなくて、ただ、生きているから生きているだけなのだ。
 生きることの楽しみはなんなのかって、「人間を感じる」ということなのだと思ったりする。
 人の、人であることの営みというか、生存本能というか、人間らしさみたいなことに、グッとくる。それを感じているだけでわたしは人と一緒にいることが、苦ではなくなるし、面倒でもなくなる。その代わりに、そう感じたいと思うことがそもそもハードルが高かったりする。この世界に、人は多すぎるから。
「人間らしさ」にグッとくるというのは、なんというか、どっかからもらってきた価値観なのかもしれない。でも、その「グッとくる」というだけで、わたしは生きていられるような気さえする。
 それは、例えばどんなことか。
 意欲を以ってやることも、やる気のないことも、人は、実はある程度は選んでいる。仕事だから、とかそれが好きだからとか、その人が好きだから嫌いだから、と、なんだかんだと言い訳をしてやることを、あるいはその意欲について、決めている。
 そういうことが具体的な行動として顕れることに、わたしはグッときたりする。意欲を持つことは当たり前ではないし、やる気なく片手間にやるとしても、それでもそれなりの仕事になったり。人間とはなんとも不思議なものだと思う。気もそぞろな仕事だとしても、人にとっては高級だったりするのが、人生で、あるいは、自信のない仕事が人に評価されるのが人生で、もしくは、自信のある文章を、全く人に読んでもらえないことも多々ある。
 やる気だとか、意欲だとかは多分、関係がない。人は行動したことでしか評価されない。何をするのか、でしかない。考えていることは、なにも人に作用することはない。脳みその中をうまくコントロールできるというわけでもない。ただただ、行動したことに、その人が顕れるというだけなのだ。
 だから、そこにその人の人間が顕れることに、わたしはグッとくる。どんな人も、好きになれる気がするのはそういうわけだし、だからこそ、誰とも仲良くしないのかもしれない。
 とにかく、この世界は人にあふれていて、わたしは混乱する。その人を示す何かを見出すのに、象徴的なものなどなにもないのだろう。人は誰かを好きになったりするが、それでも、何かを以って人を好きになるというよりも、ただただ、人として興味がある、というだけなのだ。そのことに、容姿もなにもない。わたしにとっては。人に興味を持つことに、意欲がない。それでも目に触れる人の機微について、わたしは考えることは多いし、それについてグッとくることは多い。
 不安も、焦燥も、希望にも、もう、なにもかもが、ただ、人間の思考の志向でしかない。そんなことに翻弄されることがバカバカしく思えてくる。そんなことは、どうでもいいことなのだ。ただ、その人間が、なにをやったのか、だ。それだけなのではないか。どんな心持ちを持っていたとしても、とにかく、なにを為したのか、それだけでしかない。なにをやって、なにをやらなかったのか。
 示していることは、なんだって、何かのヒントになりうる。それに気がつくことさえできたら。ふと掛けた言葉に、人は簡単に左右される。元気に見せているその態度が、仕草が、言葉が、ありとあらゆるいろんなことが、その人を示している。
 そのことに、グッとくる。
 とても落ち込んでいる人が、「Be Smile!」みたいなシャツを着ているとしたら、わたしは笑顔になるだろう(たぶん)。
 人はきっと、どうやったって生きていける。そう生きようと思うのなら。人の心はいろんな要因で変化して、また、変化させられて、そうやって、在り続ける。だから、面白いのだと思う。
 気の持ちようによっては、簡単にやる気を失ってしまう。それでも、人は為したことによってしか、人に見られることはない。そこにいることでしか、そこでしていることでしか、人に想われることはない。
 たぶん、おそらく、こう思うことは虚しいことだ。でも、そのまた裏には楽しさも含んでいる。人は人を想うし、また想わないこともできてしまう。
 なんだか、ぼくにはまだまだ分からないことが多いような気がしている。