どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人が罹りうるいちばん美しい病

 もう、何をしたって、満たされることがないという予感。人生を悲観してしまっている。彼女のことをずっと想っている。
 彼女のことを想うことで、自分をごまかしているのかもしれない。誰かに依存することで、自分をなんとかやり込めているのではないか。彼女とまた接したなら、それで満たされると思っているのも、それはそれで自分の思い込みに過ぎないのかもしれない。
 結局、人は満たされることもなく、ただ、満たされようと、自分を満たそうとし続ける生き物というだけなのかもしれない。
 きっとどこで何をしたって、何をされたって、満たされることはない。そういう予感しかなくて。何かに満たされたなら、また全体の容量は増えて、というか喜びが変質して、尽きることのない欲望にぼくは踊らされるのだろう。
 ぼくは、踊ることに、踊らされることに疲れてしまった。
 どうあがいても、満たされることのないことに、渦のようになっているこの世界の欲望の前にたじろいでいる。ぼくは、疲れてしまったのだ。
 あの子を抱いたら、また抱きたくなるのだろう。この焦燥は一生消えることはない。誰に褒められたとしても、自分を褒めることがないとわかっている。満足できるわけがないと知っている。それでも、ぼくはそれを求めるのだろうか。
 一生、尽きることのない欲望と付き合うのか、それとも、どこかで満足するふりをするのか、満足したつもりになるのか。
 なんでかわからないけれど、あの人はぼくにとって絶対的なものだった。この人でなくてはならない、と思った。それなのに、運命のいたずらなのか、結ばれることはなかった。今はひたすらに彼女のことを求めている。何があったというわけでもないのに。
 このしんどさはなんなのか。どうあっても満たされることはないのに、彼女を求めてしまっている。人の愛の業の深さにぼくはたじろぐ。彼女となら、幸せになれるのかもしれない。彼女となら、不幸せでもいい。そんなふうに考えている。
 今度こそ、この人の期待に応えたいという人だった。この人の期待になら応えられるという人だった。
 彼女はぼくのことを覚えていてくれるだろうか。次に会ったときにはもう、忘れてしまっているんじゃないか。次に会う機会なんて、あるんだろうか。
 今日も、彼女のことを思い出す。毎日、まいにち、彼女のことを想っている。
 こういう気持ちも、忘れてしまうのだろうか。彼女のことを忘れてしまう日が来るのがこわい。
 彼女のいる場から離れなくてはならないことさえ告げることもできずに、ぼくはそうせざるを得なかった。それから、まいにち彼女のことを想っている。
 もっと時間があれば、ありさえすれば、もっと仲良くなれたのに。それから自分が逃げていたような気さえしている。期待に応えることができないんじゃないかと不安だったのかもしれない。なんか、そんな気がしている。そういう自分がなんだか鬱陶しい。自分はとても愚かなんじゃないかと思う。もっと、話をする時間を大事にしたらよかった。でも、そうなってしまったことをどう思っても、もう、仕方ない。
 彼女も毎日、ぼくのことを想っていてくれないかなぁ、なんて都合のいいことばかり考えている。そうであるかもしれないし、そうでもないかもしれない。ぼくがいなくて、取り乱しているんじゃないか、なんて妄想をしたり。誰かを責めたりしているんじゃないか、と心配したり。平然と今までどおり仕事しているという気もするし。
 相手を想っているだけでは、何も起こらない。起こりようもない。なんだかふわふわした気持ちだけを持って、毎日をしんどく生きている。生かされている。
 人に優しくすることが仕事だなんて、ぼくにはしんどいことだ。嫉妬で狂いそうだった。だから、あの場にいる時間を減らしていたのかもしれない。
 期待に応えたかった。そうできなかったことに、とても悔いが残る。彼女は期待に応えたくなる人だった。この人なら、とおもってた。この人でなくては、とおもってた。またあそこに戻りたいと思ってしまっている。
 どうしたら、彼女とまた逢えるだろうと、考えている。