どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

贈ることのない恋文

 何を書いたらあなたを楽しませることができるだろうかと考えて、あなたの楽しみのツボみたいなこと、あんまりよく知らないことに気が付きました。人格としてのあなたを好きだけれど、あなたの嗜好だとか、何を楽しいと思うのだろうとか、そういうことにはずっと触れてこなかったから。でも、ぼくはあなたに興味を持っているし、あなたもそうだと思いたい。一緒にいる時間が今よりもっと増えたら、そういうことは自然とわかってくるものでしょう。だから、今日は、最近あったうれしかったことや、楽しかったことを書きます。ただそれだけでこの手紙は終わると思います。
 一時期の焦燥とは打って変わって、この数日はずっと良い気分で過ごせています。信心深いと言われるかもしれないけれど、その要因は“お墓参り”かもしれない。なんだか、そうすると良いことがあると思い込んで、外苑まで行ってお花とお線香を供えて来ました。その日から気分も気持ちの流れもずいぶん変わってきたと思います。お墓参りはもしかしたら関係ないのかもしれない。長く電車に乗ることも最近はなかったし、良い感じで休めたというところが本当のところかもしれません。ご先祖様が、とかはあんまり信じてはいないんです。見守ってくれていたらいいな、とは思うけれど、当てにしても仕方がなくて、そうとは知らずに守ってくれている、くらいでいいと思う。
 閑話休題
 毎日歩いたり、走ったりしています。スマホの例のゲームをお供に。なるべく運動しようと心がけているけれど、それも良い方向へ向かっている要因かもしれません。今はそういったことが楽しいことです。
 友達の一人にそのゲームばかりしている子がいて、その子に負けじとやってますけど、ぜんぜん追いつかないみたいです。彼は歌を仕事にしていて、その子のうたう歌は彼の真摯の結晶とぼくは思うのだけど、彼は大丈夫なのだろうかと心配になったりします。ゲームし過ぎだろう、って。彼の稼ぎの補填のためにも、今度一緒に彼のステージを拝みに行ってもらえないでしょうか? 彼には病気の頃に本当にお世話になったから、ちょっとでも恩返しがしたいと、いつも思っているんです。あなたにも彼を気に入ってもらえたら、それは本当の僥倖かもしれない。でも、まぁ、人とひと。ぼくとはぜんぜん違った人だから、あなたがどう思ったとしても、ぼくは二人とも大好きであることに変わりないです。
 久しぶりに走った日の夜は、頭が痛くて仕方なかったけれど、それもまぁ、もう少しの辛抱でしょう。体力をつけないことには、この先の人生はないぞ、と自分に言い聞かせて走っています。走ることが楽しくなるともっと良いのだけど、今のところ、昔に走って気持ちよかった感覚よ、戻ってこい! といのって走るばかりです。
 本当に楽しいことは、あなたのことを考えながらこうして手紙を書いている、この時間なのかもしれない。あなたと会いたい。
 白状すると、あなたに逢えないだろうかと、繁華街を毎日歩いていました。でも、逢えるわけもなく。偶然に人と人が出会う可能性など、ほとんどないことはわかっていたけれど。そうしていないと、落ち着かなくて、なんとかしたかった。そういう時に、合理的に考えることができる頭があったら良かったのだけど、ぼくは、右往左往しているだけでした。頭は人並みにはあると思っていたけれど、そんなこともないみたいです。
 また会うときがあったら、そういう縁があったら、伝えたいことがあります。そのときには、よくしてほしい。照れて、何気なく接してしまいそうで、自分を不審に思っています。こういうのは、勇気とかではなくて、ただ、そのときの空気とか雰囲気とか場の感じとか、あなたの表情とか、なんかそんなことなんだろうと腹をくくっています。いい音が鳴ると良いのですが。
 また会う日に。