こころが通うということ
人には、脳みそだけではなくて、心だってあるのだって、最近になってやっとわかった。心が通うから人は瑞々しくいられるし、自分を保っていられる。いきいきと生きることができる。心が通っているとわかるから、独りだとしても、寂しく感じないかもしれない。
頭で考えたことが人間のすべてではないってこと。人間の行動に付随する感情には確実なことなんて何ひとつとしてない。こうしたから、こう思っている、なんて、その人以外にも、自分以外のことについても、全然わからないことだ。
それは、あの人といたらドキドキする、ってことだ。
それは、あの人のことを考えたらドキドキする、ってことだ。
あの人のことを考えていたら、独り寂しい夜だって、豊かに過ごせる、ってことだ。
あの人と一緒にいられたら、どんなに幸せだろうって、心から願うってことだ。
そういうことは、頭で考えるようなことじゃない。勝手に、心で思っていることだ。
こういうこと、当たり前の人には当たり前なのかもしれない。でも、ぼくは最近になってやっと、わかった。
この世界に、理屈ではないことがあってよかった。
この世界に、理屈ではないことがあるって、わかってよかった。
この世界に、理屈ではないことがあるって、理屈ではなくわかってよかった。
感覚として、自分の中に堪えきれないなんらかの衝動みたいなのものがあって、どうしようもなくなってしまう。あなたと会うためなら、どんな犠牲も払わないような気がしてしまって、ときどき怖くなる。あなたと一緒にいるためなら、いつか死んだっていい。あなたの胸の中で死にたい。どうせいつか逝くのなら、わたしはあなたと一緒にいたい。
人の行動と、想いは、一対一対応だと思っていた。脳みそで考えたことが人間のすべてだと思っていた。
これは、過去の自分への裏切りになるだろう。
考えたことが、人間のすべてだと思ってた。頭で人のことを好いてた。
でも、たぶん、人間ってのは、そうじゃない。物語とか教訓話によくある、心ってのがやっとわかった。頭でなく、人を心で想うということがあるんだと。心が反応してしまうということがあるんだと。理屈でなく、心が動くってことがあるんだと。
こうなってしまったら、ぼくにはどうしようもない。ただ、満たされるまで、ぼくは渇望し続けるのだろう。たぶん、逝くまで。
それと同時に、こころを与え続けていられたらいい。
ぼくの心がどうやったら、満たされるのか、わからない。わからないけれど、与えるこころ、愛する心だけは渇きたくない。そうできたら、きっと、この先はずっと幸せだろうって感じがしている。たぶん、きっと。