どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

愛するきかい

 ただ、自分は不幸だ、とひとりで声高に叫んだとしても、それを本当に聞き入れる人はいない。ただ、自分が不幸に落ちていくだけなんだ。
 不幸にどれだけ抗っているかというと、たぶん、そんなことはなくて。ただ、自分のことをかわいそうな人として扱って欲しいだけの、構ってほしがりの、寂しがりに過ぎないでいる。たぶん、ずっと、そうだ。
 頭使って、行動して、人と会って、そうやって、不幸を回避しているかというとそんなこともない。そんなそぶりもない。ただ、かわいそうな人でいたいだけなのだ。できるだけお金を稼いで不幸を回避しようとしていない。人と会うことで自分を慰めるというわけでもない。人に相談するわけでも、もちろんない。人を頼ることをしない。そんな人間は、もれなく不幸にちがいない。
 寂しさは降り積もる。独りでいることにどんどん慣れていく。人と愛入れなくなっていく。そうやって自暴自棄になって、自分を責めたり、他人を責めても、自分自身が狭く、小さく、か細く、なっていくだけ。自分に抗うことは、それはつまり不幸に抗わないということで、そして、自分のしたいことを見て見ぬ振りして実現しようとしないということだ。
 私の人生に現実感がないのは、そんなことに由来している。私は、現実から逃げている。何をするのにも、自分の自尊心を満たすことはなんなのか、いつも考えているような気がしている。どうやったら自分の見栄が保たれるのか考えているような気がしている。
 私は、現実を、見誤っている。
 誰かといたら、それだけで幸せになるということはないのだろう。この仕事をしていたら、それだけで幸せになるということはないのだろう。何かをしていて、それだけで幸せということはないのだ。ただ、不幸を回避することはできるかもしれない。人生とは本質的に困難なものだ。
 見据えた現実の先にあるものは、なんだろう。なにをしたから幸せだってことはたぶんなくて、ただそうあるだけで、それで自分はどうなのか、というそれだけなのだと思う。
 あなたを愛する機会を欲しい、と切に思う。今度こそ、と思っている。私にあなたを愛させてもらう機会をくれ、と思っている。幸せとは、そんなものなのかもしれない、って思う。