どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

なにかを為すこと

 なにかを得ることよりも、なにかをする、なにかを為すことのほうが、ずっと生産的で、人の役に立てて、心が穏やかになるのは、それが人に与える、ということだからだ。なにかを得ることは、得た時点ではほとんどなにも生まない。ただ自分が満たされるというだけなのだ。なにかを為すことで、人はなにかを生む。人に与える、ということは人によろこびを与えるということになりうるし、それと同時に自分の裡からよろこびをわかせることにもなりうる。
 しかし、人はなにもかもを為すことは出来ない。時間的な問題、能力の問題、意欲の問題、からである。だから、意識して、あるいは、無意識に選ばなくてはならない。なにを為すかを選ぶことは、なにを人や自分に与えるか、を選ぶことだ、とわたしは思う。それはときに自己満足に陥ったり、他者のみがよろこぶことになってしまう。本当に人が、心の底から他者や自己をよろこばせるなにかを為すことは、難しい。
 それを達成するためには、それを為すということを深く理解し、効果的に為すということなのだろう。人に与えることは、よろこびである。しかし、なにを、どのように与えるのかによってその効果は雲泥の差になる。下手をすれば、自己や他者を殺すことになる。
 なにかの効果を得るためにそれを為すのではない、と人は言うかもしれない。しかし、為すことのすべては表現であり、表明である。その、一挙手一投足や、あるいは、それをあえて(・・・)為さないことでさえも、その人の意思表示であり、なんらかの影響をその人自身の人生や周りの人の人生に与える(・・・)ことになる。道端で手を上げる様な些細なことでも、いまあなたがこの文章を読んでいることだって。
 なにかを得ることは、それだけではおそらく人を幸福にはしない。なにかを生産することにも、人の役に立つことも、心が穏やかになることも、本当にはたぶんない。ただ周りの世界や、自分の裡なる世界に、なにかが満たされるばかりだ。なにかを抱え込んだところで、身や心が重くなるだけである。
 それをつかってこそ、人生には意味がある。
 思い遣ってこそ、人生に意味はある。
 自分の為すことで人がよろこぶことはもちろん、ただ為すことであっても、自分の裡からなにかを効果することは、つまり、世界がなんらかの形で変わることは、人間にとっての歓びである。それだけでも、生きている価値がある。
 ただ居るだけでも、人に効果することが出来る場合さえある。その場合、その人は、その人格を以て、その場所に移動してきて、居なくてはならない。
 どんなに弱くとも、その人にはそこにいる意味がある。人は自分から弱くあろうとすることもできず、そして、人間はひとり残らず弱いからだ。完全無欠に正しい人間などおらず、皆、どこかしら間違っている。
 それでもその人は、そこにいる意味がある。
 なにかを為すことは、それよりも良いことかもしれないし、あるいは、何かしらの悪化を招くかもしれない。しかし、ただいるだけよりも、他者、あるいは自分自身により一層働きかけることは間違いない。そこで、なにをするかは、その人自身が選ぶことだ。それまでの人生や、感覚を、大いにつかって。
 人間のすることや、それに伴う感情に、確実なことなど何一つとしてない。ぼくたちは、いつも危うく歩いている。
 それでも、ぼくたちはなにかをすることをいつも強いられているし、そうしようともする。なにもしないことでさえも、なにかをしているのだ。どこかで誰かが見ているというわけでもなく、ただ、自分がしたいからするということでさえも、また他の誰かにとっての良いことかもしれない。
 可能性を求め続けるのなら、責任を負って為し続けることだ。そう言うことは簡単なのだけど、実際に追う責任は重く、そして、厄介なものだ。それから逃げ続けることはできるだろう。きっと。そういう人生もある。
 どれだけ人に与えることができるか、そして、すぐれた人格を持ちうるのか、あるいは、どれだけ幸福でいられるのか、は、なにかを為すということから始まるのは、間違いがないと、ぼくは思う。どこまでも為し続けるということでしかない。試行錯誤して、理解して、工夫して、期待して、やり続けるということでしかない。そうやって、人生を創っていくことでしか、自分の人生を生きるということはありえないとさえ、思う。