どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

おもってたよりも、ずっとずっとみじかい生

 忍び過ぎた恋は、当然のように浮かばれず、かなわず、ぼくの中にウロのように留まってしまっている
 物や思ってしまっているのだから仕方がない、と、開き直っても、どうせ仕方がなくて、ただ悶々としている
 私に問う人もない
 ただ自分の中に起こってくることといえば、生き難いなぁ、みたいな思考
 生き難くくしているのはまごうことなく自分なのに、
 そんな自分は置いておいて、とにかく生き難いとただ嘆いている
 それは、頭の中で、一応きちんと言っておくが、あくまで頭の中で、人への批判であったりする
 批判される人のことが、可哀想になるくらいだ
 その人はそのことを知らないけれど、私はいろんな人を私の頭の中で貶めてきた
 でも、それもきっと、どこか筋違いなんだろう
 筋が通っていたとしても、私の頭の中のことに過ぎないのだから、なんの実効性もなく、ひいては意味もなく、ただ、私は憂さ晴らしをしているだけというだけに過ぎない
 このままでは、憂さ晴らしをして一生が終わる
 私の一生は、子供の頃に思っていたよりも、ずっと短いものになりそうなので、この今の生活を大事にしなくてはならないと、きょう思った
 明日はそうは思っていないかもしれない
 でも、一生を憂さ晴らし、しかも脳内での、に過ごすのはちと勿体無いし、とにかく自分で自分が不憫になってくる
 貶められている人にも申し訳ない
 そんなことしていても仕方がないのだ
 でも、そう考えてしまう、思ってしまう
 あの人はこう素晴らしかった
 そういうところが誰にでもあるはずで、そういう“憂さ晴らし”をしたらいいのかも知れない
 人の批判ばかり思い浮かんでしまうのは、私が批判の対象になりそうなことの反発なのだろう
 そうやって、自分を守っているつもりになっているだけなのだ
 人は素晴らしい、とただ歌っていればいい
 人の良いところを見つけることは、楽しいこと
 人を恨んで生きても、時間の無駄でしかない
 そんなことは、私の人生にちっとも役には立たないのだから
 (誰にとっても)人生はみじかい
 私は特にみじかいと思う
 生が短いのではなくて、有効な生がみじかい
 私は私に対して効果的でありたい
 私は誰かに効果的でありたい
 私は誰かに効果されたい
 そうあろうと思うなら、誰でも、どんな状況であろうとも、しあわせな気持ちになれるはず
 自分から不幸になってもしかたない
 しあわせでありたい
 そのしあわせがなんなのか、ぼくは知っているのに
 そうできない歪みを、ぼくはまだ知らない
 私に興味を持って理解する他者がいたなら、どんなに良いか
 忍んでいても伝わらないが、もう、彼女と会う機会はきっとないだろう
 彼女は、教えた
 でも、まだ、それは不完全だった
 そのことを、ぼくは惜しいとおもっている
 想いたい
 彼女はどこにいるのだ
 今、そこで何を考えているのだ
 縁よあれ、光よあれ、導いて、天使