どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

「楽」と「楽しい」について

 結局のところ、楽になろうとしているだけだった。死ぬのも生きるのも同じ。構って欲しいのもそう。独りになりたいのもそう。その瞬間に楽になろうとしているだけだった。
 ここ最近のことで、自分を楽しませようと積極的になったことって、ほとんどなくて。ただ、楽になろう、楽になろうという日々だった。楽しむという余裕がないというのが本当のところかもしれない。無意識に楽しもうとはしているのだけど、その一つひとつにしっかりのめり込めていない。というか、楽しんでいない。いつも、何かを思っている気がする。
 とにかく、不安なのだと思う。
 生きていることも、死ぬことも、結局は不安。楽になりたいというだけで、そこに短絡的なところがあって、その上にプライドがあったりして私は本当に馬鹿だと思うのだけど、とにかく、楽になりたいというだけで、だから、却ってしんどいのだと思う。損して得とるというか、楽にはならないけれど楽しいことを選べない。しんどいことが楽しいんだ、とかそんな簡単なことではなくて、とにかく楽になることしかやっていないのではないか。自分が心地悪いことを徹底的に避けているし、自分を心地良くすることしかしていない。だから、人と深く接することもない。友人もできない。恋人もできない。お金も浪費するだけ。
 楽になるということに理屈さえ通ったら、うまく自分を騙せたら、それだけで自分をコントロールできるのに。それは、屁理屈だっていいのだ。本を読むのも、音楽を聴くのも、結局は親に与えられた心地良さのこじつけみたいなもので、そういうものを自分に用意すれば、自分を受け入れることも出来るだろうし、くだらないプライドも捨てるんだろう。その方が気持ちいいんだってわかったら。そういうことがわかることは、人生にとっての僥倖なの。
 結局、誰かがイイと言っているものをココチイイと思って受け入れているというだけに過ぎないのだから、楽しむことについてそんなに深く考えているわけでもこだわりがあるわけでもないんだって、最近になって気がついた。コレである必要って、あんまりないよなーって。コレで気持ちよくなるのって、紛いものだよなー、って。楽でいたいだけだし、楽に気持ちよくなりたいだけなんだよなー、って。楽に気持ち良いつもりになりたいだけだし、気持ちよくなっている自分でいたいだけだし、気持ちよくなっている自分を人に見せたいだけなんだよなー、って。
 きちんと、自分の楽さを知ること。きちんと自分の心地良いことを知ること。きちんと自分の楽しい、を知ること。それは、人に与えられたものでも、社会のなかで設定されたものでもなく、自分という人間として湧いてくるものを知る。
 いろんな心地良さを知ることが、私の人生を豊かにする。自分の固定観念とかくだらないプライドとかをウッチャって、どんどんいろんな心地良さを、いろんな楽だ、ということを実感していけば、もっと生きやすくなる。生きるとか、死ぬとか、たぶん、どうでも良くなるんだろう。自分も愛せるし、人のことも愛せるだろう。そういうことが自然になると思う。心地良い自分は気持ちがいいものだから。心地良い自分を心地良く感じてくれる人のことを、ぼくはぞんぶんに愛す。
 楽になりたいって指向性を上手く活用して、自分を支配することができたらいい。それはこじつけでいい。遠回りでもいいし、一見気持ちよくないことだっていいのかも知れない。楽になりたい、心地良くなりたい、心地悪くなりたくない、逃れたい、なんかそんな気持ちの動きをうまく察知して自分をあつかっていったら、たぶん、今までよりもずっとうまくいく。そういう風に頭を働かせることができたら、もっと人生は豊かになる。もっと行動的になるし、人のことも、自分のことも、愛するんだろう。
 たぶん、いろんな理由から、ぼくは、自分を楽にすること、ひいては自分を楽しくすることを制限していた。そうすることに罪悪感を持ってしまっていた。楽になることにいろんな理由を無意識に作って、自分を誤魔化していた。そうやって僕はぐちゃぐちゃになっていった。でも、その楽になりかたは、間違っていた。楽しくなる道から外れていた。罪悪感に捉われていた。自分を罰してた。自分を、楽しませたって、いいんだと、やっとわかった。
 楽になることに関する、自分の持っているプライドみたいな、見栄みたいな、自意識みたいな、なんかそんなのを外せたらいいんだけど、それも、こうすれば、楽になるぜ、って自分にささやいたなら、簡単にクリアーできるだろう。そのくらいに、「楽になりたい」っていう指向性は強いというか、身体も精神も求めている。とにかく、ぼくは、楽になりたい。そのためになら、本当に楽になるのなら、寝る間も惜しんで何かをするのも苦ではない。誰かを愛することもやぶさかではない。自分だって信じられる。愛せる。
 楽になろうとするあまり、私は自分を罰してしまった。そうすることが楽だったから。そうすることでしか、楽になれないと思っていたから。でも、それは自分に逆らっていたし、自分を明らかに罰していた。楽しくなるはずがなかった。ただ、しんどいだけだった。そういう楽さだった。
 何を「楽である」と思うか、なのだと思う。私は、救われたいんだと思う。そのために死にたいと思ったし、そのために生きたいと思った。笑っていたいのも、お金が欲しいのも、嫌なことを避けたいのも、結局は、楽になりたいからで、そういう感覚が自分の中にある。でも、それは幸運なことにぼくにとって確固たるものになっていない。
 楽だってことにはたぶん、とてつもない多様性があって、自分の生きてきた感覚の中でしか、その「楽である」という現象を、私は実感していない。それで、私が感じてきた「楽」なんて、たかが知れていると、私はわかっている。だって、「楽しそう」にしている人がたくさんいるもの。この世界にあるそういう「楽しみ」のほとんどを、ぼくは当たり前だけど享受していない。というかできない。でも、興味はあるんだと思う。だから、死んでないんだ。
 「楽である」ことは、「楽しい」こととは違う。だけど、どっかでつながっていると思う。楽になることだけを求めていても、楽しくはならない。楽であることの設定にもよるけれど、そこから楽しみにつながることがあるはず。そんな気がしている。自分をきちんと救いつづけていたら、いつか楽しく生きられるんじゃないか。
 「楽である」こと以上に「楽しくある」ことには多様性がきっとあって、というかあって欲しくて、だから、生きていることには価値があって、だから、どんな生き方も肯定されるべきで、だから、どんな人も区別されるべきではなくて、だから、どんな人も尊重されるべきなのだ、と、思う。人生から「楽しみ」を奪ってしまったら、何も残らない。本当に、何も。楽しみを知るためには、楽を知らないといけない、と思ったりするけど、そこらへんにはまだ決着がついていない。日本語で考えるとただ言葉のあやみたいなことに終始してしまうのでこの辺でやめる。pleasant(felt good)とenjoyable、ってことなんだけど。つまり、悦びと楽しみってこと。そんな感じです。