ぼくたちは期待して生きている
見たいものに、見たいものを、みてしまう。
そのみたものは、その人の人生こそが切り出したものだ。
人はこの世界にあるもののなかに、自分の見たいものを見い出す。
美しさも、醜さも。
そうあってほしいと思って、わたしたちは見ている。
感じたいことを感じるし、見たいものを見るし、したいことをする。
そうなるように、自分を仕向ける。
自分の生きてきた足跡からなにも見い出さずに生きることはできない。どうしたって見い出してしまう。
生きてきたことを価値付けてしまう。
あの出来事には意味があったと思いたいからだ。
なんらかの理由で、自分に価値を見出すことができなくなったときに、人はいろんな意味で生きてはいられなくなってしまう。
人は、自分の見たいものを見る。
そして、自分の“みた”ものを意味付ける。
美しいとか、醜いとか、価値があるとか、ないとか。自分には必要だとか。
自分に対してさえも。
人は、期待されることを許してくれるひとが好きなのだ。人というのはそれだけなのかもしれない。
自分に対してさえも。
人に期待しなくなったとき、自分を期待しなくなったとき、つまり、“自分の”人生になにも見出せなくなったとき、その人は生きることができなくなってしまう。
見たいものを見たいものにみる。
その中に、わたしが隠れている。
それをこそ見出すのだ。
そうやってわたしたちは、この世界に生まれた成りに生きている。
この世界にあるべきものとして生きている。
そういう成り行きなのだ。
期待することはいつも未来志向だ。
生きることが楽しいから、それ自体が生きようとしている。
期待することで価値付いている。
この世界にあるものものに価値があるとしたら、それについての期待があるからだ。
この果てない空にも、
買ってきたチョコにも、
街で見た介助犬にも、
これを読んでいるあなたにも、
誰かに、あるいは自分自身に
されるべき期待、するべき期待がある。
だから、在る。
だから、生きている。
だから、生きる。