どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

気に入られることに、折り合いをつける その1

 人に好かれることは、縁の歓びであるはずなんだけど、それは、観念としてはわかるけれど、実感としてはわからない。それは、人間がどんなに尊いものなのかってこととたぶん繋がっていて、だから、ぼくは人と接することを当たり前だと思ってる(そして、どうでもいいと思ってる)。
 人に気に入られることに罪悪感を持ってしまう、ということに最近になって気がついた。そういう壊れ方をしている、と。そういうわけで、自分は病んでいるのだ、と、それからその根のところ、そして、そうなっていった経緯もだいたい分かった。いろんな不運もあったし、そういう人生だったと思う。誰かが悪いとかではなくて、一様に、自分も含めていろんな人が関与して、ぼくはこうなっている。多くの人が何某かを抱えて生きているのと同じように。
 人と出逢うときは、大抵、そういう必然として出会うから、その人のことを尊いと思ったりしない。例えば、学校で同じクラスになったとか、席が近くだったとか、なんかの因縁によってそうなって、たまたま自分のそばにいた人ってのがほとんど。だから、そのことをとりとめもなく感じている。そこに、出逢いの歓び、なんて感じてない。人に気に入られることを普通には気にしないでいられる。
 いろんな偶然があって、ぼくは人に気に入られることに罪悪感を感じている、となんともなしに気がついた。いろんなことを以って、なんだか巡り巡ってそのことに気がついた気もするし、いつかは気がつくことだったのかもしれない。
 そう気がついた自分が、どうやって人と接するべきなのか、ちょっとよくわからない。この十年はそうやってどうにもならない結果だったし、それは今も同じこと。どうにでもなる気もするし、誰とも接しないことも充分にできる。なんだか、独りでいたい気もするし、でも、それでは生きていけないということもわかっている。
 人に気に入られることは尊いことだ。それはわかっている。当たり前じゃないって。誰にでも好かれるわけじゃないし、誰にでも嫌われるというわけでもない。
 それに罪悪感を持つことになった経緯を思い返すと、それに翻弄され過ぎた結果だと思う。そのことにいろんな人の思惑があって、都合の良いように翻弄された上に、自意識とか、運が良くなかったことも含めて、わたしの心は、たぶん、一点集中に穿って壊れたのだと思う。
 今は、なんとか、周りにいる人の、無償の愛によって生かされるていると自覚してる。そうではない人は、とにかく遠ざけたいという感じ。なんか、情けないけどね。
 簡単に人に好かれ過ぎたし、そのことによって人に翻弄されることに自分でも気が付かないうちに疲弊していた。好くことも陥れることも、人には簡単なのだ。誰にも、自分の裡を見てもらえていないって、ずっと、文章を書いてきたような気がする。誰にも届かないのに。
 人は、簡単に人を好きになるし、その逆もまた簡単なのだ。そのことには、なんの理由もない。ただ、なんともなしに、そうなる。そのことは、虫が好かない、って言い方があるくらいに漠然としている。そして、その裏にはやっぱり、思惑とか意思とか、その人自身の性分であったりとか、人と人の相性とかいろんな要素で成り立っている。それが目に見えることは時に怖いし、見えてしまうことで、なんだか人間の汚いところを見てしまった気になる。
 楽しければそれで良いって人もいる。お金を得られればそれでいいよ、って人もいる。そうあれるなら、人を人として扱わないことに躊躇ない人も。それで当たり前だし、そうやって世界は成っている。自分だって、たぶんそうしてきたし、そう扱われてきた。
 人間はたくさんいるからこそ、たくさん機会があるとも言えるし、代替がきくとも言えてしまう。
 そして、人がたくさんいるということが、私にはとても怖いことだった。人と出会うことも、人と接することも、関わることも。好かれることも、憎まれることも。悲喜交交、私にはうざったかった。そういうことのすべてが。
 人を信じたいから、悩んでるんだと思う。せめて、面白がれていたら、楽なのに。どうにもならないことを、受け入れられたら、そんな余裕があったら、もっと楽なのに。人の心のままならなさに、如何ともできず、折り合いもついていないまま、ここまで生きてしまった。
 人の世界は、良くも悪くも人を利用することで成り立っている。そのことの遠慮のなさが、ほんとーに嫌になっている。人を信頼してもいるし、疑ってもいる。人を利用する、と言ったら語弊のある範囲も含めて、やっぱり、人を頼りにしたり、人に寄りかかったり、恋愛することも、友情も含めて、みんなうまく人とやっている。
 人に気に入られること(そして、嫌われること)、はそのことの核だと思う。そこが壊れていると、人との行動はとても難しくなる。信じることができるとか、頼りにできるとか、疑心暗鬼とか、そういう次元ではなくて、もっと深いところで、人と関わることは難しい、と思ってる。心が壊れている。
 難しいからといって諦めているわけではないし、かと言って、積極的に人と関わるかといってもそうでもなくて、いまは、こころ穏やかに暮らしていたい。ときどき、人の愛に気が付きながら、蕩々と暮らしている感じ。
 人がそこにいる、ということ。
 人を尊いとおもうこと。
 人を気に入るということ(気に入られるということ)。
 そういうことが今の自分のキーワードで、そういうところに折り合いがついたら、きちんと生きられると思う。きちんと生きるってのが、どういうことか、よくわかんないけど。
 とにかく、不安定な今の状況は、とりあえずは変わるだろう、って感じです。運が悪ければ、もっと壊れるんだろう。そこを、運任せにはできないくらいに壊れていて、どうしたらよいんだろう、って。探りさぐり、足掻きあがき、おっかなびっくりに、生きています。
 うまく、人に、愛されたいです。うまく人を愛していたいです。

気に入られることに、折り合いをつける その2
気に入られることに、折り合いをつける その3
気に入られることに、折り合いをつける その4