どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

気に入られることに、折り合いをつける その2

 気に入られることに罪悪感を持つってことを、このあいだ書いたんだけど、なんか、まだ違和感があって。本当には自分を認めたいし、認められたいのに、罪悪感を持つフリをしているのではないか、と。そうやって、自分を慰めているし、自分に言い訳しているに過ぎないのではないか、と。
 人に気に入られることの、ハードルを超えられないことへの保険として、罪悪感を持っているつもりになっているだけなのではないか。
 やっぱり、心の底では、人に認められたいと思っている。そう在れる自分ではなさそうだから、そうやって予防線を張っているだけなのではないか。
 挑戦していないというか。挑んでいない。
 放っておくと延々と自分の頭の中で悩み事が発生する状態になったりする。それも、そうやって予防線を張っているに過ぎないのではないか。今の自分のこういう現状の原因は、自分ではない他の誰かのせいであって、自分にはその責任はない、という風に。そこまで極端なことは考えなくても、悩み事に捉われているとき、自分を肯定してるような気がする。少なくとも、自分は安全なところにいて、なんの非もなくて、ただただ、自分に起こったことを悔いているという。それって、ただ、自分に予防線張っているだけ、言い訳しているだけ。
 自分に起こったことの全ては、自分に責任がある、と決めてしまえば、そんなことは悩みですらなくなる。そういうことが起こる場に居続けてしまった自分が悪いと思えるなら、運命なんて些細な言葉になる。
 結局は、言い訳なんである。
 結局は、自分の人生に責任持っていないだけである。
 他人に起こされた自分のこと、そして、自分に起こったことの全ては、自分が自分でケツ拭くしかない。
 だって、自分のことだから。
 自分に不利なことがあったり、自分に対する言説があったとしても、それを行われている自分は、やっぱりそのことに責任を負っている。
 だって、自分のことだから。
 それを誰かの所為にしても、実際にそのことが誰かの所為になるわけではなくて、ただ、自分がいじけているというだけ。
 自分はずっとそう見られていたのかな、と思って、ものすごく情けない気持ちになった。
 人に気に入られることは、それだけで心地良いことのはず。そう思えないと、人界で生きていくことは難しい。そうして、やっぱり生きていくことは難しくて、そうやって生きてきた気がしてる。
 だけど、そうあったら、生きていられない。生きることが楽しくない。人とは生きられない。
 人に気に入られる自分を肯定できたら、どんなに良いだろう。そういうことが、当たり前でない自分は、やっぱり、心が壊れて、いる。
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 人にとっては、私なんて、どうでも良い人間である。こいつが壊れようと、どうでも良いことだ。気がつくわけもないし、気にも留めない。自分の所為だなんて思うわけもない。そのことを憂いてもしかたない。
 人は楽しくあろうとするものだし、たぶん、ぼくだってそうだ。楽しくありたい。でも、そうじゃないのは、自分を肯定できていないから。そういうとっかかりを持っていないから。人のことも受け入れることができないし、自分を肯定することもできていない。自分に期待していないし、人に期待されることにも、罪悪感を持っている。そうやって、自分の人生を生きてきてしまったし、そうあることが、自分がうまくいかない、上手く周っていかない原因だと思う。
 いきなり自分のことを肯定することなんてできないし、いきなり人を受け入れられるわけでもない。親にもろくに褒められてこなかった。そういうことが普通。
 きちんと人に受け入れてもらうことは難しいというか、どうあっても自分が納得して人に気に入ってもらうことはできないように思う。どうあっても、自分を納得させることなんて、できそうにない。ここまで知ってもらえたら、自分を好きになっても良い、なんて、おかしい。自分を好きになる人は勝手にそうなったら良いし、それに応えるのかどうかは、やっぱりこちら次第で、それで良いんだと思う。
 うまく自分を肯定できたら良いけど、それすらも自分次第って感じがとてもする。自分を肯定することを自分に許可したら、それでおしまいなんじゃないのって。だって、生きているから。自分が生きることを喜ばしいと思いたいもの。肯定できないことをしてしまうと、やっぱり肯定感はどんどん目減りしていく。その極致まで行った結果が今だし、だから、自分は自分を肯定しなくてはならないと、強く思う。そうでないと、生きていられない。
 生きることは、たのしいよ。人といるのもやっぱり楽しい。結局、楽しい。楽しくないこともたくさんあるんだけど、それも含めて、やっぱり楽しい。
 人に気に入ってもらうことはとりあえず諦めて、気に入ってもらえることに無条件降伏して、ただただ、人を受け入れることに専念したら、たぶん、うまくいくって気がする。とりあえず、気に入ってもらうことをベースに人間関係を作っていったら良いんじゃないか。自分のしたことの、自分が在ることの、反応としてなんかそうなっていくのだから、とりあえずそれに対応していく感じで生きていったら良い。最初から人に気に入られることに罪悪感持つんじゃなくてね。とりあえず気に入られることから始めて、気に入られたら、そっからどう反応するか、判断していったら良い。
 起こったことにどう、順応していくかってのは、人生の命題みたいなこと。
 起こって欲しいことが常に起こるわけじゃないし、起こって欲しくないことも当たり前に起こる。思ってもらいたくないように思われるし、それが肯定的なことだと、拒否しにくいけど、それでも、状況に合わせる自分をずっと用意してたらいい。
 うまく、自分を気に入ってくれる人なんて、永遠に現れない。だって、自分をきちんと知ってもらうことなんてできないから。どんなに知り合ったって、自分の納得する知り方、なんてない。そんなに人は人に興味持たないしね。だったら、無条件降伏して、何もかもをとりあえずは受け入れる体勢でいたら、それから、それに合わせていったら、もっと生きやすくなるんじゃないのかね。
 言い訳している自分は、やっぱり情けないよ。自分の人生に何かを負っていないのは、かっこ悪いよ。人の所為にしているのは、自分の人生を放棄しているのと同じ。何もかも、自分に起こったことは自分に依っているって決めてしまえば、生きる覚悟ができるんじゃないのかね。そんな気がしてる。

気に入られることに、折り合いをつける その1
気に入られることに、折り合いをつける その3
気に入られることに、折り合いをつける その4