どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

信頼したいと捉われていたこと、そして信頼する、ということ

 人を信頼したい、って話だった。
 自分の中にウロのように、私をいじめていた人たちを信頼していたかったし、信頼したかったという気持ちがずっとある。そのことを、今日は書きたい。
 過去を思うとき、私は可能性の中を生きている。あぁだったから、いまこうなっているとか、あぁだったから、いまこうなってしまってる、とか。今を満足していたら、過去を肯定するし、今に不満なら、過去を否定する。その理由として、過去は存在してる。
 ぼくは、人を信頼したい、のであって、信頼していたかった、というのとは少し違う。信頼していたとしても、同じ結果になっていたかもしれない。というか、今となっては、信頼していたのかどうかすらもわからない。信頼していたのかもしれないし、そうでもなかったのかもしれない。できる範囲でそうしていたはず。そうとしかできなかったから、そのときにそうて敷いたのであって、そのことを変更することはできない。だって、現実としてそうだったんだから。
 その人々のことを、「いま」、信頼しようとするから混乱している。だって、今、彼らは、私の周りにいない。少なくとも、信頼するべき人として存在していない。そもそもいない。その人々を、信頼するも何もない。言ってて仕舞えば、信頼していない。道端にいる人ほどにも。信頼に足らない。それは、そういう過去を背負っているから。
 それを、信頼していたかった、そして、今、信頼したい、と思っている。たぶん。
 でも、それは叶わないだろう。というか、叶える気がない。だって、可能性の中に生きていたいだけだから。信頼できるかもしれない、と思っていたいだけだから。実際に彼らと会っても、彼らを信頼しないだろうと、心から思う。修復するとかでなく、許すとか許さないとかでなく、信頼しなくていいと思う。そして、信頼したいと思わなくていいと思う。
 自分にされたことを考えたら、私は、そう思っていいと思う。自分を、あるいは彼らを庇わなくていいと思う。
 だって、彼らは、私を、人として扱わなかった。どんなに丁寧に見ても、私のことを彼らは尊重していない。そういう人を、肯定的に考える必要はないと思う。信頼しなくていい人たちなのだ。
 その人たちを信頼していたかった、と思うこと。ひいては、信頼したいと思ってしまうことは、心を壊す。可能性の中に生きるのも、やめたほうがいい。その可能性は、ない。ありえない。
 今、彼らが私の前に現れて、そこから時間をかけて新たに関係を立ち上げ直すのなら信頼できるかもしれない。でも、そんなことをする気が私にはない。他人より遠い人たちだから。
 私は、人を信頼することに捉われている。信頼していたかった、ということに捉われている。そうやって無言のストライキをしていた。自分は嫌われているということに目を向けなかった。その事実を受け入れることができなかった。彼らは取り繕っていた。彼らに都合よく振る舞っていた。彼らは、私を良いようにも悪いようにも扱った。そうすることが彼らに都合がよかったから。そうやって翻弄されることによって、私は捉われの身となった。人を信頼していいのか、それともいけないのか、わからなくなっていた。そうやって、人を信頼しなくなった。
 でも、それに気がついた今、彼らを信頼しないくていい道を選ぶ。信頼できるかもしれない、信頼できたかもしれない、という可能性の中に生きない。その甘い蜜を唾棄する。
 彼らは、彼らとして私とは関係なく、きっと、幸せにしているのだろう。そのことに、関心を持たない。幸せなら、それでいいと思う。
 私は、幸せでありたい。人を、信頼することによって。滞りなく、何も心配することなく、人を信頼することによって。
 人を信頼できる、ということは喜びである。とりあえず疑いなく信頼できるということは喜びである。信頼することをベースに生きることができるのは、喜びである。人を疑がって生きることに、疲れた。人を、肯定していたい。
 人を、信頼していたい。