どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

無能であろうとする呪い

 私には、無能であろうとする呪いがかかっていたと思う。無能になることでいろんなことを回避しようとしていた。例えば、期待されることだとか。
 アドラー心理学では、「無能の証明」というのは問題行動の最終段階なのだそうだ。自ら無能になることで、問題加害者となる。いわゆるボイコットをすることによって。
 無能であることによって、私は何かを得ていた。有能であるかもしれない可能性の中を生きることができた。自分から無能になれば、本当は有能なのかもしれない可能性を生きることができる。要するに、有能に成り切る勇気がないのだ。そこに、挑むことができない。
 それから、無能になることによって、期待されることを回避している。無能であることを盾にして、期待を受け付けないようにしていた。さも、期待に応えないことは、無能であるからであるようにしていた。
 いろんなところに、自分の弱さが見え隠れする。
 自分の人生の中に、いろんな場面で、私は無能であることを選んでいる。何かを回避するために。有能であろうとして失敗して、無能にならざるを得なかったことも当然にあるのだろうけど、それさえも、自分から無能であることを選んだかのように自分を納得させていたのではないか。
 そうやって、本当の無能の人間は出来上がった。
 多くの、私の欠けた部分、人とは違う部分は、そういう志向から成っている、と思われる。もちろん、生来の欠けたものもあるのだろうけど、それは、大したことでなはい。自分から無能であろうとする志向は、あった。そして、それは厄介だ。何か欠けていることを、仕方ないと思うか、誤魔化すか、ポジティブなものに変えるのか、は大きな違いだ。無能であろうとする人間は、欠けていることは短所にしかならない。肯定することもないし、否定されることを受け入れてしまう。自分を欠けているものと解釈(されることを許)しているのは、他ならぬ自分なのである。
 何かをしようとすることについても、私はいちいち無能であろうとした。本気でやってできなかったこともあるにせよ、有能にはなるつもりのない人間に、何かが達成できるわけがない。いろんな言い訳を駆使して、様々な言いがかりを自分に用意して、私は無能であろうとあり続けた。やってできないことには、ハナから自分の中に言い訳が用意されていた。無能であればいい、という。
 無能であることによって、私は私を為していた。
 有能になろうとして、あるいは無能になろうとすることをやめたからと言って、有能になれるわけではもちろんない。しかし、有能であろうと挑み続けることは、無能に甘んじていることとは違う。潜在意識にある、無能であろうとする志向は、厄介だ。
 だけど、私は、それに気がついた。無能であることによって回避する自分の弱さに気がついた。これから、どう生きるのかはわからない。やはり自分を無能にするのかもしれない。一刻の勇気ではどうにもならない。
 きっと、親も無能であろうとしてしまうことに苦しんでいたのだろう。そうやって、私を育てたのかもしれない。変わろうと思って変われるものでもないのかもしれない。でも、有能であろうとすることは何の劣等性もない。そのほうがいいと、素直に思える。無能であろうとする志向のくだらなさ、有能であることを期待されることを回避しようとする、自分の弱さを、私は知っている。
 有能であろうと挑みつづけることでしか、人の世界に生きることはできない。無能であろうとすることによって降り積もる劣等感に、自分自身が押しつぶされるからである。
 無能になることで回避していることに注目して向き合っていくことでしかない。そして、有能であろうとし続けること。そこにくじけないこと。勇気を持つこと。
 自分から無能になって、良いことなどない。できることはできてしまうし、できないことはできない。できないことを、何のせいにするかは人それぞれだと思うけれど、できないことに、自分の心の弱さが隠れているのかもしれない。