どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

人が在る、ということ

 わたしは、わたしを、誰にも相応しくない、と思っている。それだけの人間でしかないと思い込んでいる。そう思いたいのだろう。そう思って生きている。この社会の中で、この世界の中で。そのむなしさ。
 むなしいと思うことさえ、わたしには意味がないのかもしれない。むなしいと思うということは、他者を意識しているのだろう。そうやって、生きている。わたしというこのむなしさを、誰にもわからないと思っている。でも、そのむなしさをわかってもらえたところで、結局、むなしいと思うだけだろう。その疎外感を共有することはない。だから、むなしいと思ったところで(それを表明したところで)、意味はない。
 わたしの相応しくなさ。社会に自分を役立てることができない。自分を活かす方法を知らない。なぜ自分は生かされているのか、よくわからない。
 誰と相対したらいいのかわからない。誰にも相対されない。相性なんてそもそもなくて、誰とも相性がいいということがない。ただ、わたしは、意固地になっているだけなのかもしれない。誰とも関わりたくないと。
 以前に、人間の話をした。だけれど、人間ということの、良さが、いまいちよくわからない。何で人がいるのか、なんで人が尊いのか、よくわからない。そういうところに、わたしが人と愛対することができない原因みたいなものがあるのだろうけれど、人間を尊いとはあまり思えない。
 なんでなんだろう。
 人の一面しか見ていないのかもしれない。見ようとしていないのかもしれない。まるで、物語を読むように、人を“読んで”いるのかもしれない。人というものの、奥深さを知らない。人というものの、広さを、わたしは知らない。
 物語は、書いてあることだけによって成り立っている。書いてあることが、物語の全てだ。と言いつつ、そこに矛盾も感じる。その物語の背景を感じさせるから、その奥深さを感じさせるから、物語の裏側を感じさせるから、そこに描かれていることのほかに、何かを感じさせられるから、わたしは物語を読むんじゃないか。だとしたら、人もそうだろう。
 ただ単に、その人が表明したことが、その人のすべてではない。その人が何を思い、何を考え、何をするのかは、また別であるかもしれない。ただ、そう表現したに過ぎない。表明したことが、その人のすべてだ、ということも簡単にできる。だけど、その裏側にあるものを感じて欲しいとも思う。なんか、そう思っている気がする。
 この世界に、ただ、在るためだけに存在しているものなんてない。その存在にさえ、何かを孕んでいる。何かを感じさせる。何かを、感じることができる。だから、すべてのものは尊い。自分がそうとは思わなくても。そうとは思えなくても。在ることに、意味がある。思われることに意味がある。思われるかもしれないことに、意味がある。
 それは、自分もを、や。
 人がいる。ただ、そのことには、意味が少ない。それでも、意味はあるのだろう。それを自分が感じることができないというだけで。
 人がする。何かを。ただ、そのことだけでは、意味は少ないかもしれない。それでも。
 これまでの人生で、人に困らされたことが多々あった。でも、そうではないこともたくさんあったはず。励みになったり、心を動かされたり。現に今、わたしの心はこうして動いている。わたしによって。わたしはわたしによって動いている。そうやって、わたしは成っている。わたしは、わたしによって成っている。社会でどうとか、この世でどう、ということも大事なのだけど、それだけでもない。自分で自分をどう思うのかということの方が、ずっと大事なのでは。ずっとずっと、大事なのでは。
 誰かにふさわしい誰か、なんてなくて、ただ、相対したときに、なにを表明するのか、どう行動するのか、ということでしかないのかもしれない。