どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

しあわせであろうとすること

 わたしには人を信じるというところに欠陥があるように思える。どうも、そこが人と違うようだ。うまく、人を信頼することができない。信頼したいと思うこともあるのだけど、うまくいかない。
 その発端はたぶん、自分が裏切られたと感じている出来事にあると思う。それによって、わたしは自分を無能にし、それは自分を犠牲にするような行為で、そうして、わたしは生きることがままならなくなっている。
 信じることを意識することはふつう少ない。わたしも、いろんなことを掘り返して、考えて、やっと、そうなのかもしれないと思うようになった。わたしは、信じることができていないのだ、と。人を信じていないことを意識していなかった。自分に対してその意識を隠していたのだと思う。
 人を信じたい、と思う。それは、たぶん社会的な動物としての本能みたいなもので。それでも、信じることに疑心暗鬼になってしまっていて、自分が苦しいのだ。信じるも信じないもあなた次第です、と誰かは言っていたけれど、それはその通りなのだけど、結局、難しいことは、難しいまま。
 自分が裏切られたことを、正しいことにするために、つまり、自分は裏切られるに値する人間であると、価値のない人間であるために、わたしは、自分を無能にしているように思う。自分から自分を無能にしているのだ。自分を犠牲にすることで、彼らを正しいことにしようとしている。言うなれば、お人好しなのではないか。
 時折そういうことをしてしまう。自分の幸福をさえ放ったらかして、何かを守ろうとしてしまう。自己の幸福を追求することができない。自分をしあわせにしようとしていない。何か理由があるのだから、自分の不幸せを納得してしまう。自分が犠牲になることでなにかが丸く治るのなら、それで自分が泥を被ろうとしてしまう。
 その不幸は結局、自分のせいなのだ。自分がそう呼び込んでいる。しあわせになろうとしていない。自分にはなんの得もないのに。理由がある、というのが大きいのだ。自分から進んで不幸になるようなことを、わたしはこれまでにたくさんしてきたように思う。
 裏切られることなんて、この世界にたくさんあると思う。みんな当たり前に裏切られている。人は人をモザイクに見ている。この人のここは許すけど、他はそうではない、とか。そうやってみんな小さく裏切ったり信じたりしている。そうやってこの世界はできているのに。
 わたしは、裏切られたということをさえ、自分から隠蔽した。そうして、自分を犠牲にした。
 いまだに、何が正しいのか、よくわからない。信じることはいつも正しくはないように思ったりする。いや、信じることは、たぶん正しいのだ。裏切ることも、たぶん、正しい。そのことに潔癖である自分が、よくないのだ。そういう風に、生き難い人間であることが、よくないのだ。人間的に、汚れていない。人は、ときに汚く、だからこそ、ときに美しい。そのことを思い知ったような気がする。
 信じるだけ信じたらいい。ただ信じてそのままにしておいたらいい。信じるかどうかは自分次第なのだ。人は信じることによって生きていると、今は強く思う。少なくとも、人間らしく生きることに、信じることは不可欠だ。信じることを意識しないから、それが欠けていることに戸惑う。
 わたしはどこかで信じたいと思っている。
 信じられる誰かを、ずっと探しているような気がする。でも、信じようと思えば、信じようと自分が決めたら、誰だって信じられるんだろう。そして、また、裏切られるんだろう。
 わたしは、誰かを信じていたいのだ。それは、せめて誰かを好きでいたい、ってことだと思う。そうすることをさえ、自分に禁じていた。そうして、わたしは不幸せだった。自分を犠牲にしてしまってた。そんなこと、する必要なかった。
 わたしは、しあわせでいたい。
 誰かを好きでいたい。
 誰かを、信じていたい。