どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

信じないことにしている目的

 信じないことにして、わたしは何かを守っているのだ。何かを守るために、誰かを信じないことにしている。でも、実際は信じている、というか、信じたい、のだと思う。
 信じることは人間の本能なのかもしれない。でも、それを否定しようとしているから、苦しいのだ。
 わたしを、好意的に捉えてくれる人がこの世界にいたはず。その人がそう表明しないからといって、それだけで肯定していないということにはならない。心に任せると、自分を否定していた人のことばかり考えてしまう。それは、そういう病気だから。自分を否定する人ってのは当たり前にいて、そういう人のことをわざわざ信じることもない、と、今は思う。
 自分を肯定的に捉えてくれる人と楽しく過ごしてたらいい。わたしを否定する人のことを考えていることほど、時間の無駄はない。人生は、思っているよりも短い。
 無意味に自分を追い込む必要なんてないんだ。信じなくていい人のことを、つまりわたしを否定的に捉える人のことを思い浮かべる必要もない。大抵のわたしを否定的に見ている人は、わたしのことにそんなに興味がないのだと思う。上辺だけを見て、何かを思って何かを表明したに過ぎない。
 信じないことにして守っているつもりになっていることは、か弱き自分なのだろう。信じてしまうと崩れ去る自分なのだろう。否定されるべき自分をわたしは抱えていて、それを肯定してしまうと崩れてしまう何かを、人を信じないことで守っている。
 人と向き合うということは、自分と向き合うこと。
 人を信じることは、自分を信じること。
 人を信じたい、ということは、自分を信じたい、ということ。
 わたしを否定する人に、落ち度はきっとない。きっと、何かを見て感じて、わたしを否定している。そのことと、向き合えてない。わたしは、生きることをおろそかにしているかもしれない。わたしを否定する人と向き合うことを避けて、そうして自分と向き合うことをせずに。
 ずっと、忘れものをしているような気になる。
 人を信じられなくなった自分のことを、どう扱ったらいいのかわからない。あしたにも死にそうなのに、自分と向き合うことなんてできない。自分に好意を示してくれる人とだけ接していられたらいいのに。わたしが嫌われるってことは、わたしは生きているってことなのかもしれない。そうだとしたら、わたしを否定するその部分だけをなぞってから、それをわたしの好きな人たちと過ごすのに活かせたらいいって思う。わたしを否定する人と、生きることはないんじゃないか。