どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

わたしは、じぶんを生きていたろうか

 わたしは、じぶんを生きていたろうか。わたしは、人のことばかり考えていたように思う。人のことを思うのはいい。だけれど、人が自分をどう思うのか、ばかりを考えていた。あの人らの所為だとかいろんな言い訳をしていた。
 自分に起こったことは、すべて、何もかも違わずにすべて、自分の所為である。自分に責任がある。誰かによって引き起こされたことにも、それを自分がどう感じたか、どう扱ったか、どう振る舞ったか、そういうことによって、その引き起こされたことの意味が変わるのだから。何が起きたとしても、それはやはり自分の所為なのだ。言い訳は効かない。言い訳は、聞かない。
 わたしは、じぶんを生きていたろうか。言い訳をせず、誰がなんと言おうとも、じぶんを見失わなかったろうか。わたしが閉じているとき、わたしはどうしていたろうか。何を思っていたろうか。誰かの所為にしていたんじゃないか。言い訳を用意していたんじゃないか。わたしがどう生きるのかは、わたしが決めている。誰かに依って決められていることではない。
 何かに対して、抗うことも、時には必要である。わたしを描写する人のことを受け入れていいのか、いつも考えているだろうか。どう対処するべきなのか、わたしは考え、行動しているだろうか。わたしは、なにを日々考え、なにを日々行動しているだろうか。
 人がわたしに何を思っていたのかを頭に行動しているのではないか。自分のことを自分のこととして考えるべきなのに。自分の人生を生きるべきなのに。どうしてそうできていないのか。自分のしていることを負ってくれる人なんていない。
 この世界の、どこにも。
 わたしの為したことは、わたしの為したこと。わたしの感じたことは、わたしの感じたこと。それを、どう表明するのか、どう人に伝えるのか、それが大事なことなのに。そうしてこなかったように思う。わたしは、わたしを放棄していた。それが、悔いになってしまっている。
 わたしは、じぶんを生きていたろうか。
 誰かにどう見られるのかをいつも気にしていたような気がする。
 あの人に嫌われているということを、いつも気にしていたような気がする。
 また、誰かに嫌われるんじゃないか、と、どこかで思っているような気がする。
 わたしは、自分を本当には大事にしていない。わたしを壊したのは、他ならぬわたしなのだ。わたしのすべては、わたしが責任を負っている。わたしを壊したのは、間違いなくわたしである。そうやって、世界をつまらないものにしているのも、他ならぬわたし。
 世界を楽しもうと思うなら、そこから考えなくてはならない。そうして行動しなくてはならない。世界を楽しむのは、わたしであるから。わたしを壊したのがわたしであるように、世界を構築するのも、またわたしである。
 わたし以外に、わたしの感覚をつくるものはいない。
 わたし以外に、わたしという人間をつくるものはいない。
 わたしは、わたしに依って成っている。
 わたしは、わたしの感じ方を、決めている。
 わたしに対する人々の振る舞いを決めているのは、少なくともその感じ方を決めているのは、わたしである。
 間違いなく。
 わたしが、わたしの感じるべき世界をつくっている。
 人がわたしをどう思おうと、気にすることではない。わたしはしたいことがあるはず。わたしを間違って描写する人があるなら、それを正せばいいだけのこと。そうすることは、義務である。わたしをとって間違えられないようにするために。誤解されないために。
 その後悔は、もういらない。
 きちんと、自分を見てもらえるように工夫するべきだ。自分で自分をきちんと表現するべきだ。齟齬は生むべきではない。うまくできるはず。
 そして、他人はわたしが思っているよりも、他人のことを意識していない。気に留めていない。どうでもいいと思っていることの方が多い。そのことを忘れないこと。良い意味でも、悪い意味でも。その意味でも、どう思われようと気にしても仕方ない。
 自分をどう思うのか、それが大事。誇りを持つことも、自分を否定することも、できる。自分を壊すこともできてしまう。どうにもならないことは多いが、とても多いのだが、自分の感じ方は、自分に依っている。いつも、自分を守るべき。自分の尊厳を、守っているべき。自分のことを、どのくらいきちんと考えられているだろう。どのくらい、自分のために行動できているだろう。自分を守れ。壊すな。せかいを、守るために。