どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

最近の日々

 コロナとはまったく関係なく、体調の悪い日がつづいて、なんとかギリギリ生き延びているという感じが先週くらいまでつづいていた。去年末からずっとそんな感じだった。気を抜くと頭の中が嫌なことで染まる日々。
 それを先週くらいから脱しつつある。きっかけはいろいろと思い付くけれど、まぁ、去年の夏に好きになった人のことを、考えるようになったからかもしれない。というか、ずっと好きなのは相変わらずで、夏に会えなくなってから一度も会ってない彼女のことを思わない日はなかった。きっと、すっかり彼女はわたしの頭の中で変容している。つまり、自分に都合の良い存在になっているのかもしれない。あの夏のまま保っているゼ、と言えるほど頭ン中お花畑ではない。
 もしかしたら、体調が良くなったのは、時期が過ぎて花粉症の薬を飲まなくなったからかもしれない。
 あるいは、通院の間隔が二ヶ月おきになったからかもしれない。これは夏の彼女がらみでもある。間隔が延びたのはコロナのためだけど、そう腹を括って病院に行って、そうした方がいいと思いつつ診察を受け、そうなることをあっさり受領できたから。なんだか、ある意味で諦めがついたのかもしれない。彼女と再会するには、再入院する以外になさそうなのだけど、その可能性は今のところほぼないし、まぁ、今生の別れかな、って感じになってきた。たまたま会う可能性は、ないだろう。会ったとしても、気がつかないかもしれない。通院の日は会ってしまうんじゃないかと、ちょっとソワソワしている。でも、会ったことはない。会うはずもない、と思ったりする。
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 去年の年末くらいから、けっこう精神状態は酷かった。その間に頭の中に渦巻いていることが、全部無駄だったかというと、たぶんそんなことはなくて。病気になってからの十何年かで、一番自分を知れた数ヶ月だったかもしれない。というと大袈裟なのか。
 自分で自分に隠蔽していたことをたくさん掘り起こし続けた日々だった。そうやって、自分を知った気がしているけれど、たぶん、それもまだうかつで、日々、今の自分をいかに楽しむか、みたいなことを考えている。
 というか、復旧のきっかけはたぶんそれで、「過去」のことや、「他人」のことを考えているときはいつも苦しかった。「今の自分」のことを考えている時は、心は穏やかだった。そんな話を診察で話したことが大きかった。そういうことはその一ヶ月前くらいから考えていたのだけど。
 最近は、コロナでささくれだった外界とは離れている。その前からそうしていたので、人間関係も変わらないし、生活も変わっていない。コーラばかり飲んでいたら十キロ太って、ほぼ引きこもりであるので、母のリハビリも兼ねて、近所をなんらかのテーマを持って歩くことにした。最近は近所の暗渠めぐり。頭と観察と脚を使うので、けっこう楽しい。
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 ときどき、考える。わたしは、誰かにふさわしい人間になれているだろうか、みたいなこと。友達とか、恋人とか、仕事とか。そういう人間関係について。そんなことを考えることさえバカなのだ、とも解っている。けど、そう考えてしまう。夏の彼女がいま目の前に現れたとして、わたしに何かを任せるだろうか、と思ってしまう。いろんな人間関係を、思う。優れた関係とか交流とかなんてなくて、ただつながっているのだ、と常々思う。
 「今日の自分」を楽しむかどうか、楽しめるかどうかが、きっと人生で、それだけでしかない。そのための関係で、今の自分には家族以外の人を必要としていないかもしれない、って思う。少なくとも、楽しませることはできず、不安にさせるばかりだろう。そして、自分もそんなに人といることが楽しくはないと想像している。あの、夏の娘いがいは。
 でも、それも多分に妄想を含んでいて、そう都合よく考えているだけ。とりあえず、今は粛々と、自分の人生を生きている。ようやく、といった感じで。どうしたら再会できるだろうと考えるより、再会できたときになるべく良い状態でいたいなぁ、入院とかでなくて、という感じ。
 大変な時ですが、これを読んでいる方もご自愛ください。ぼくもまだまだ自律神経失調ぎみの身体を引きずって、日々を生きています。負けない。きっと、良くある。
 それでは。