どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

なにかを人のせいにする不幸せ

 被害者意識を持っている限り、しあわせになることはない、って最近は思う。自分のなにかを誰かのせいにしているかぎり、自分の人生を生きることはできない。
 自分が在ることにいついて、自分の為したことについて、自分の影響について、その人がなにを考えるのかは、その人による。でも、自分に関することについてその人が責任を負わないなんてことはない。どんな場合であっても。自分がその身体で、その精神で、そのまとわりついた評価で生きていくのだから。
 降りかかる何かを払い除けるのは自分である。自分にしかできない。どんな場合でも。自分の置かれている状況を本当に覆すことができるのは、あるいは受け入れてしまうのは、自分でしかない。なんらかの形で生きるのだから。
 自分に起きたことを、受け入れるしかない。自分の不幸や禍を受け入れるしかない。その上で、どうすればいいのか、どうしたらよかったのかを自分なりに対応していくことでしか、人生はない。誰かのせいにして、それだけで済むことなんて、人生にはない。自分のことは、明らかに自分が負っている。
 そして、自分を拓くのは自分である。どんなに人がレールを敷いたところで、本人がやらなければ、やれることはなにもない。意思があればなんでもできるとも思わないけれど、その人にやる気持ちがなければ、できない。
 生きていることを楽しもう、と思えることは難しい。
 人生をより良くしよう、と思えることは、とても尊い
 被害者意識があけた心の穴を、ぼくは持て余している。巣食った心の穴。そこに埋めるものがない。またすぐに被害者ぶってしまう自分がいそう。
 愛し愛されることでしか、自分を保つことはできない。そこのところが壊れつつあるのをなんとか持ち堪えている感じがしている。日々、余裕がなくて不安定。誰を信じたらいいのか、信じるべき人を失っている。見分けがつかない。どこにもいない。
 自分が信じたらそれで信じるのだろう。それだけなのだと、わかっている。でも、今の自分は予断を許さない。一つの過ちで底を突くだろう。それを賭けられる人が友人知人にない。愛する心を失いつつある。愛されるための余裕がない。愛されるはずもない。
 別に、恨みがあるわけじゃない。恨みを晴らそうと思っていない。そうしたら楽になるとも思わない。関わりたくない。思っていたくない。
 被害者づらすることを、いまは醜いと思っている。
 ただ楽しくいたい。ただ幸せでいたい。不幸せでいたくない。幸せであるのなら、そう自覚していたい。せめて幸せであろうとしていたい。せめて楽しくあろうとしていたい。
 それだって難しい。