どんなに高く飛ぶ鳥よりも想像力の羽根は高く飛ぶ

自分の"楽しみ"を書いて、自分だけが救われるんなら、それは言葉ではないんじゃないの。言葉は人のものでもあるんだから。

罪悪感について

 たぶん、僕が固執しているのは、罪悪感あるいは被害者意識だ。罪悪感にすがりつくことによって自分を弱いものにして、なんとか生きながらえている。そんな感じ。生きる理由を作っているというか。強くあるためには罪悪感がありすぎる。罪悪感を利用して、自分を都合よくよわいままに生きながらえさせている。そして、それを勝手に感じいているのは他ならぬ自分である。
 罪悪感が、自分の行動を狭めている。そうやって人にコントロールされていると言えるんだろう。罪悪感によって自分は支配されているし、それを是としている。してしまっている。自分が、そうしている。他者が罪悪感を与えることがそもそもできるだろうか。人は勝手に感じるものなのかもしれない。与えようとして与えることができるものではないのではないか。だからこそややこしくて厄介なのだと思う。自分に都合よく罪悪感を感じて、自分の行動をそう決めている。感情も、気持ちの持ち具合も、気力も、いろんなことを罪悪感に任せている。そうやって一人で勝手に支配されている。
 罪悪感を持たされていると、僕は思うのかもしれないけれど、僕は、自発的に、持っている。同じことをされても感じない人は感じないんだろう。そんなこと、どうでもいいことじゃないか、と簡単に言えてしまうことなんだろう。なんでそんなことにクヨクヨしてんの、ということ。罪悪感を持たされたまま生きることのしんどさに、僕は身じろぐけれど、でも、そうやって生きるのが人間で、だからかろうじて生きているとも言える。罪悪感をなんとかしたくて、足掻いてなんとかじたばた生きていられるのかもしれない。あっさり死んでもおかしくなかったのだ。
 罪悪感を持っている。たぶん。普通はそうではない。自分を正当化することはできたのかもしれない。今だってできるのかもしれない。でも、そうはしてこなかった。罪悪感をふんだんに感じることと共に生きてきた。どうやって生きてきたのかもよく覚えていない。たぶん、まともではない。でも、生きている。
 なんとなく予想できることは、みんな自分を正当化して生きているんだろうということ。僕だってある面ではそうかもしれない。でも、根のところでは、自分を正当化しきれなかった。そういう知恵がなかった。生真面目すぎるのかもしれない。生きづらいと思う。でも、生きている。今だって自分を正当化できるだろう。でも。自分に罪悪感を持たせた人たちのことを、やっぱり思う。彼らはたぶん、間違っている。間違ったことでわたしに罪悪感を持たせている。持たせること自体も間違っているし、持たせる内容も間違っているとわたしは思っている。べつに勧善懲悪するつもりもない。というか、関わりたくもない。ただ、罪悪感だけが残ったのだ。
 関わりたくないと思うことすら、意味がない。関わらない。罪悪感の元となる人たちのことを考えるのも億劫である。ただ、罪悪感だけを洗い流したい。自分を正当化したくてたまらなくなる。自分が正しいのかわからないから、正当化、という言葉を使うんであって、そして罪悪感という言葉を使うんであって、自分に正があるのであれば、それは違う言葉になるんじゃないか。そうやって被害者意識と言っていたけれど、自分の正しさを担保することは何もなく、彼らは彼ら同士で自分たちを正当化し合って生きている。そのことに、なんの思いもない。ただ、彼らはそうなのだ、と思うだけだ。そして、関わりたくないし、考えることもしたくない。彼らは互いに互いを認証し、正当化し合っている。自分たちは悪くはないと。自分だけがそれをできずにもがいている。生きることが難しいと思っている。それだけなのではないか。彼らに認証して欲しいとも思っていない。それでもわたしには言葉がなく、自分を正当化することができない。だから、苦しいのだと思う。理屈を唱えれば、わたしはわたしが正しいと思う。まごうことなくわたしは正しい。それなのに、罪悪感とか正当化、という言葉を使うことについて、それもまた罪悪感なのだ、罪悪感の為せるわざなのだ、と思う。いろんなステージで罪悪感をわたしは持っているのだろう。自分なりの正しさと、仲間内の正しさと、社会的な正しさと、その中にわたしは埋もれている。罪悪感とともに生きている。どこにも、自分はいない気がしている。
 おそらく、わたしに正しくないところがあってそして正しいところがあって、彼らに正しいところがあってそして正しくないところがあって、それを互いに認めないというだけなんだろう。そうやって、わたしだけが罪悪感に苦しんでいる。生きることもままならないくらいに。そのことに思うこともない。わたしは罪悪感に苛まれている。そうやって生きるしかなかったのだ。そうやって甘えていたのかもしれない。罪悪感に包まれることによって、自分を生かしていたのかもしれない。
 でも、それは生きていることに対する侮辱かもしれない。だから死にたくなるんだろう。生きる限りは、罪悪感を感じることもなく、利用することもなく、支配されることもなく、ただ生きることに費やすべきだ。何かを消費するのではない。浪費するわけでももちろんない。自分を活かして生きること。そうするためには罪悪感を感じる暇はないし、当てもない。生きることに罪悪感は必要ない。自力で、自分を生かすこと。ごまかすことなく、自分を生かすこと。そのために罪悪感はいらない。
 罪悪感は、たぶん、消えない。だけど、罪悪感を利用している自分を認識したら、その効果は消えるかもしれない。罪悪感を無効化してしまえばいい。自分に利があるから、そういう言葉を使うのだ。そして、そうやって、自分は生きていた。でも、自分のことを活かすなら、そんなことに捉われている場合ではない。どうでもいいことだ。罪悪感なんて。それを利用していた自分を醜いと思う。情けないと思う。くだらないと思う。どうやっても、生きられる。自分を活かすことを考えるのなら、罪悪感はいらない。感じなくていい。自分を利用して、自分を活かすのだ、生かすのだ。
 罪悪感に、支配されていた。そうしていたのは、自分である。誰のせいでもない。自分が罪悪感を産んだのだ。そうやって自分を支配していた。いろんなことはどうでもいいことだ。関わりたくないことさえも。自分の生を生きるのだ。きちんと。ごまかすことなく。罪悪感は、自分の目をごまかしていた。誰かに対する気持ちは濁っていた。他の誰のことでもなく、自分のことを考えていたらよかった。そのことに集中するべきだった。罪悪感なんて、犬の餌にもならない。生きることの役に立たない。いろんなことを疎外していた罪悪感を睨んで、見据えて、わたしは生きるだろう。わたしが懸命に生きることを見張っていて欲しい。安易に自分がそちらに流れてしまうことを恐れて、やっぱり睨む。そうやって生きていく。逃げるのは簡単なのだ。人生はたぶん困難だ。誰にとっても。生きることに、わたしは生き生きしてくる。そうなっているのがわかる。罪悪感をたずさえて、わたしは生き切る。